ヘもう飛降りますよ」
 舁「やい女郎《めろう》、静かにしろ、もう後へ往《い》くも先へ往くもねえ、此処《こゝ》は道が違わい、二居《ふたい》ヶ嶺《みね》の裏手[#「裏手」は底本では「裹手」と誤記]の方だ、猪《いのしゝ》狼《おおかみ》の外《ほか》人の来る処じゃア無《ね》えや、これから貴様を新潟あたりへばらす[#「ばらす」に傍点]のだぞ」
 町「さては汝《なんじ》らは山賊か、無礼いたすな、たとい女であろうとも武士の女房、彼是いたすと棄置かんぞ」
 と懐剣の柄《つか》に手を掛けるより早く、「どッこい、然《そ》うは」と後《うしろ》から抱締めました。
 町「あいたゝ」
 舁「虎藏《とらぞう》、其の手を確《しっか》り押えて居ろ」
 と二人掛りでとうとうお町を押え付けました。最前からの山冷《やまびえ》にて手足も凍え、其の儘に打倒《うちたお》れましたが、女の一心、がばと起上り、一喝《いっかつ》叫んでドンと入れました手練《しゅれん》の柔術《やわら》、一人の舁夫はウームと一声《ひとこえ》、倒れる機《はずみ》に其の場を逃出しました。ところが一人の舁夫が追掛《おっか》けて参りますので、お町は女の繊細《かぼそ》き足にて山へ登るは適《かな》いませぬから、転げるように谷へ下《お》りました。続いて後《あと》から追掛けて来ました盗人は、よう/\追付《おっつ》いて、ドンとお町の脊中《せなか》を突きましたから、お町はのめる機《はずみ》に熊の棲《す》んでいる穴の中へ落ちました。穴は雪の為に入口を塞《ふさ》がれて居りますから、表からは見えませぬが、手を突くはずみに、土の盛ってある処を突破《つきやぶ》り、其の儘穴の中へころ/\/\。熊の棲む穴にはいろ/\種類がありまして、また国々によって違いますが、多くは横穴でございます。縦に深く掘ろうと思いましても土を出すことが出来ませぬから、横へ/\と深くなりますので、或《あるい》は天然の穴を利用するのもありますが、これは大きな井戸の如き穴を利用したのでございますから、深さは十四五|間《けん》あります、底にはいろ/\な柔かな物が敷いてありまして、其の上に熊の児《こ》が三四匹居りました。親熊は其の物音に驚き、落ちた女に構わず、一散《いっさん》に飛上って件《くだん》の盗人を噛倒《かみたお》し、尚お驚いて逃出そうとする一賊の後《うしろ》から両手を伸《のば》して噛《かじ》り付き、あわや喰殺し兼まじき見幕《けんまく》、山賊も九死一生《きゅうしいっしょう》の場合ですから、持合しましたお町の短刀、熊を目がけて打付けましたが、短刀は外《そ》れて熊の穴へ落ちました。熊は二人《ににん》の旅人を谷底まで打落しまして、子が気に懸ると見えて、すぐと穴の中へ飛んで帰りました。此方《こなた》のお町は隅《すみ》の方に蹲《うずく》まり、両手を合せて一心に神仏《かみほとけ》を念じて居りますと、何か落ちて手の甲に当りました。何かしらんと取上げて見ますと、自分が所持の懐剣、幸いに柄《つか》の方が手に当りましたので怪我も致しませぬ。お町は胸中に
 「こりゃ私が所持の短刀、これを持って熊か猪《しゝ》かは知らぬが殺して出よという、神様のお告《つげ》か知らん、あゝ有難し有難し、いや併《しか》し此の穴の深さは何《ど》のくらいあるか知れぬ、殊《こと》に獣《けもの》も沢山いる様子ではあり、迂濶《うかつ》な真似をして此の身を害《そこな》ってはならぬ、いよ/\一命が危《あやう》いという時にこそ、この短刀を持って突殺してくれよう、それまでは獣の様子を見ましょう」
 と短刀を懐中に隠して、隅の方へ小さくなって居りますところへ、熊が飛返ってまいりまして、正面からお町の顔を見て居《お》る其の物凄《ものすご》さ、両眼|烱々《けい/\》として身を射らるゝの思い、普通《なみ》の婦人なら飛掛って突くのでございましょうが、流石《さすが》文治の女房、胆力も据《すわ》って居りますから、じっと堪《こら》えて此方《こなた》も熊を見詰めて居りまする。熊はだん/\近づいて、今度はお町の顔となく手となく嗅ぎ始めました。お町はいよ/\気味が悪くなって突こうかと思いましたが、この時は日の暮方《くれがた》で、穴の様子も確《しか》と分りませんから、じっと辛抱して、いよ/\となったら突いてくれようと身構えて居りまする其の恐ろしさは何《なん》に喩《たと》えようもございませぬ。暫くして熊は後《あと》へ退《さが》り、しず/\と児《こ》の側へ往《ゆ》きましたから、お町も少し心を落着けまして、人に物をいうような静かな声で、
 町「これ、そちは私を何《なん》と思うぞ、くれ/″\も猟人《かりゅうど》ではない、また悪人でもないぞよ、山賊のために追掛けられ、過《あやま》って此の穴へ落ちたのじゃ、決して其方《そち》に手出しはせぬ、どうぞ私を助けてくれ、こ
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