の上ではありますが、一体忠義の人でございますから、屋敷内に怪しい奴が忍び込むは盗賊か何だか分りませんから、
梅「曲者《くせもの》待て」
 と云いながら領上《えりがみ》を捕《とら》える。曲者は無理に振払おうとする機《はず》みに文箱《ふばこ》の太い紐に手をかけ、此方《こなた》は取ろうとする、彼《か》の者は取られまいとする、引合うはずみにぶつりと封じは切れて、文箱の蓋《ふた》もろともに落たる密書、曲者はこれを取られてはならんと一生懸命に取返しにかゝる、遣《や》るまいと争う機みに、何ういう拍子か手紙の半《なかば》を引裂《ひっさ》いて、ずんと力足《ちからあし》を踏むと、男はころ/\/\とーんと幡随院の崖縁《がけべり》へ転がり落ちました。其の時耳近く。
廻「八《や》つでございまアす」
 と云う廻りの声に驚き引裂《ひきさ》いた手紙を懐中して、春部梅三郎は若江の手を取って柵を押分け、身体を横にいたし、漸《ようよ》うの事で此処《こゝ》を出て、川を渡り、一生懸命にとっとゝ団子坂《だんござか》の方へ逃げて、それから白山通《はくさんどお》りへ出まして、駕籠《かご》を雇い板橋《いたばし》へ一泊して、翌日|出立《しゅったつ》を致そうと思いますと、秋雨《あきさめ》が大降《おおぶり》に降り出してまいって、出立をいたす事が出来ませんから、仕方なしに正午過《ひるすぎ》まで待って居りまして、午飯《ひるはん》を食《たべ》ると忽《たちま》ちに空が晴れて来ましたから、
梅「どうか此宿《こゝ》を出る所だけは駕籠に仕よう」
 と駕籠で大宮までまいりますと、もう人に顔を見られても気遣いはないと、駕籠をよして互に手を引合い、漸々《だん/\》大宮の宿《しゅく》を離れて、桶川《おけがわ》を通り過ぎ、鴻《こう》の巣《す》の手前の左は桑畠で、右手の方は杉山の林になって居ります処までまいりました。御案内の通り大宮から鴻の巣までの道程《みちのり》は六里ばかりでございます。此処《こゝ》まで来ると若江は蹲《しゃが》んだまゝ立ちません。
梅「何うした、足を痛めたのか」
若「いえ痛めやア致しませんが、只一体に痛くなりました、一体に草臥《くたび》れたので、股《もゝ》がすくんで些《ちっ》とも歩けません」
梅「歩けないと云われては誠に困るね、急いで往《い》かんければなりません」
若「も往《ゆ》けません、漸《ようよ》う此処まで我慢して歩いて来ましたので、私《わたくし》は此様《こんな》に歩いた事はないものですから、最《も》う何うしても往《い》けません」
梅「往《い》けませんたって…誠に子供のようなことを云っているから困りますな、是から私《わし》の家来の家《うち》へでも往くならまだしも、お前の親の許《もと》へ往って、詫言《わびごと》をして、暫《しばら》く置いて貰わなければなりません、それだのにお前が其処《そこ》で草臥れたと云って屈《かゞ》んで、気楽な事を云ってる場合ではありません」
若「私《わたくし》も実に心配ですが、どうも歩けませんもの、もう少しお駕籠をお雇い遊ばすと宜しゅうございましたのに」
梅「其様《そん》なことを云ったって、今時分こゝらに駕籠はありませんよ、それでなくとも装《なり》はすっかり変えても、頭髪《あたま》の風《ふう》が悪いから、頭巾を被っても自然と知れます、誠に困りました」
若「困るたって、どうも歩けませんもの」
梅「歩けんと云って、そうして居ては……」
若「少し負《おぶ》って下さいませんか」
梅「何うして私《わし》も草臥れています」
 先の方へぽく/\行《ゆ》く人が、後《うしろ》を振反《ふりかえ》って見るようだが、暗いので分らん。
梅「えゝもし……其処《そこ》においでのお方」
男「はっ……あー恟《びっく》りした、はあーえら魂消《たまげ》やした、あゝ怖《おっ》かねえ……何かぽく/\黒《くれ》え物が居ると思ったが、こけえらは能《よ》く貉《むじな》の出る処だから」
若「あれまア、忌《いや》な、怖いこと……」
男「まだ誰か居るかの……」
梅「いえ決して心配な者ではありません、拙者は旅の者でござるが、足弱連《あしよわづれ》で難儀致して居《お》るので、駕籠を雇いたいと存ずるが、此の辺に駕籠はありますまいか、然《そ》うして鴻の巣まではまだ何《ど》の位ありましょう、それに其方《そなた》は御近辺のお方か、但し御道中のお人か」
男「私《わし》は鴻の巣まで帰《けえ》るものでござえますが、駕籠を雇って後《あと》へ帰《けえ》っても、十四五丁|入《へい》らねえばなんねえが、最《も》う少し往《い》けば鴻の巣だ、五丁半べえの処だアから、同伴《つれ》でも殖《ふ》えて、まアね少しは紛《まぎ》れるだ、私も怖《おっか》ねえと思って、年い老《と》ってるが臆病でありやすから、追剥《おいはぎ》でも出るか、狸でも出たら何うしべえかと考え/\来たから、実に魂消たね、飛上ったね、いまだにどう/\胸が鳴ってるだ……見れば大小を差しているようだ、お侍さんだな、どうか一緒に連れて歩いてくだせえ、私も鴻の巣まで参《めえ》るもので」
梅「それは幸いな事で、然《しか》らば御同伴《ごどうはん》を願いたい」
男「えゝ…こゝで飯《まんま》ア喰う訳にはまいりやせん、お飯を喰えって」
梅「いえ、御同道《ごどうどう》をしたいので」
男「アハヽヽヽ一緒に行《い》くという事か、じゃア、御一緒にめえりますべえ……草臥れて歩けねえというのは此の姉《ねえ》さんかね、それは困ったんべえ、江戸者ちゅう者は歩きつけねえから旅へ出ると意気地《いくじ》はねえ、私《わし》も宿屋にいますが、時々客人が肉刺《まめ》エ踏出して、吹売《ふきがら》に糊付板《のりつけいた》を持って来《こ》うてえから、毎《いつ》でも糊板を持って行くだが、足の皮がやっこいだからね、お待ちなせえ、私ア独り歩くと怖えから、提灯を点《つ》けねえで此の通り吊《ぶら》さげているだ。同伴《つれ》が殖えたから点けやすべえ」
梅「お提灯は拙者が持ちましょう」
男「私《わし》ア此処《こゝ》に懐中附木《かいちゅうつけぎ》を持ってる、江戸見物に行った時に山下で買ったゞが、赤い長太郎玉《ちょうたろうだま》が彼《あれ》と一緒に買っただが、附木だって紙っ切《きれ》だよ、火絮《ほくち》があるから造作もねえ、松の蔭へ入《はい》らねえじゃア風がえら来るから」
 と幾度もかち/\やったが付きません。
男「これは中々点かねえもんだね、燧《いし》が丸くなってしまって、それに火絮が湿ってるだから……漸《やっと》の事で点いただ、これでこの紙の附木に付けるだ、それ能く点くべい、えら硫黄臭いが、硫黄で拵《こしれ》えた紙だと見える、南風でも北風でも消えねえって自慢して売るだ、点けてしまったあとは、手で押《おせ》えて置けば何日《いつ》でも御重宝《ごちょうほう》だって」
梅「じゃア拙者が持ちましょう、誠にお提灯は幸いの事で、さ我慢して、五町ばかりだと云うから」
若「はい、有難う存じます」
男「お草臥れかね、えへゝゝゝゝ顔を其方《そっち》へ向けねえでも宜《よ》い」
 若江は頭巾を被って居りますから田舎者の方では分りませんが、若江の方で見ると、旧来|我家《わがや》に勤めている清藏《せいぞう》という者ゆえ、嬉しさの余り草臥れも忘れて前へすさり出まして、
若「あれまア清爺《せいじい》や」
清「へえ……誰だ……誰だ」
若「誰だってまア本当に、頭巾を被っているから分るまいけれども私だよ」
 と云いながらお高祖頭巾《こそずきん》をとるを見て、
清「こりゃア何とまア魂消たね、何うして……やアこれ阿魔ア……」
梅「何だ阿魔とは怪《け》しからん、知る人かえ」
若「はい、私《わたくし》の処の親父の存生中《ぞんしょうちゅう》から奉公して居ります老僕《じいや》ですが、こゝで逢いましたのは誠に幸いな事で」
清「ま、どうして来ただアね、宿下《やどさが》りの時にア私《わし》は高崎まで行ってゝ留守で逢わなかったが、大《でか》くなったね、今年で十八だって、今日も汝《われ》が噂アしてえた処だ、見違《みちげ》えるようになって、何とはア立派な姿だアな、何うして来た、宿下りか」
若「いゝえ、私はまたお前に叱られる事が出来たのだけれども、お母様《っかさま》に詫言《わびごと》をして、どうか此のお方と一緒に宅《うち》へ置いて戴くようにしておくれな」
清「此のお方様てえのは」
 と梅三郎を見まして、
「此のお方様が……貴方は岡田さまか」
梅「えゝ拙者は春部梅三郎と申す者で、以後|別懇《べっこん》に願います」
清「へえ、余り固く云っちゃア己がに分りやせん、ま何ういう訳で、あゝ是は失策《しくじり》でもして出て、貴方《あんた》が随《つ》いて参ったか」
梅「いや別に上《かみ》へ対して失策《しくじり》もござらんが、両人とも心得違いをいたし、昨夜屋敷を駈落いたしました」
清「え屋敷を出たア…」
若「此のお方様もお屋敷に居《お》られず、私《わたくし》も矢張《やっぱり》居《お》られない理由《わけ》になったが、お母《っか》さんは物堅い御気性だから、屹度《きっと》置かないと仰しゃるだろうが、此のお方も、何処《どこ》へも行《ゆ》き所のないお方で、後生だから何日《いつ》までも宅《うち》に居《い》られるようにしておくれな」
清「むゝう……此の人と汝《われ》がと二人ながら屋敷に居《い》られねえ事を出来《でか》して仕様がなく、駈落をして来たな」
若「あゝ」
清「あ……それじゃア何か二人ともにまア不義《わるさ》アして居ただアな、いゝや隠さねえでも宜《よ》い、不義《わるさ》アしたって宜《え》い、宜《え》い/\/\能くした、大《え》かくなるもんだアな、此間《こねえだ》まで頭ア蝶々見たように結って、柾《まさき》の嫩《やわら》っこい葉でピイ/\を拵《こしら》えて吹いてたのが、此様《こん》な大《でか》くなって、綺麗な情夫《おとこ》を連れて突走《つッぱし》って来たか、自分の年い老《と》ったのは分んねえが、汝《われ》が大《えか》くなったで知れらア、心配《しんぺえ》せねえでも宜《え》い、お母《ふくろ》さまが置くも置かねえもねえ、何うしても男と女はわるさアするわけのものだ、心配《しんぺえ》せねえでも宜《え》い、どうせ聟養子《むこようし》をせねえばなんねえ、われが死んだ父《とっ》さまの達者の時分からの馴染《なじみ》で、己が脊中で眠《ね》たり、脊中で小便《はり》垂れたりした娘子《あまっこ》が、大《でか》くなったゞが、お前さんもまんざら忌《いや》ならば此様《こん》な処まで手を引張《ふっぱ》って逃げてめえる気遣《きづけ》えもねえが、宿屋の婿《むこ》になったら何うだ、屎草履《くそぞうり》を直さねえでも宜《え》いから」
梅「それは有難い事で、何《ど》の様《よう》な事でもいたしますが、拙者は屋敷育ちで頓《とん》と知己《しるべ》もござらず、前町《まえまち》に出入町人はございますが、前町の町人どもの方《かた》へも参られず、他人《ひと》の娘を唆《そゝの》かしたとお腹立もございましょうが、お手前様から宜しくお詫びを願いたい、若《も》し寺へまいるような子供でもあれば、四書五経ぐらいは教えましても好《よ》し、何うしても困る時には御厄介にならんよう、人家《ひと》の門《かど》に立ち、謡《うたい》を唄い、聊《いさゝ》かの合力《ごうりょく》を受けましても自分の喰《たべ》るだけの事は致す心得」
清「其様《そん》な事をしねえでも宜《え》え、見っともねえ、聟になってお母《ふくろ》の厄介になりたくねえたって、歌ア唄って表え歩いて合力てえ物を売って歩いて、飴屋見たような事はさせたくねえ、あの頭の上へ籠《かご》か何か乗《のっ》けて売って歩くのだろう」
梅「いえ、左様な訳ではございません」
清「然《そ》うで無《ね》えにしても其様《そん》な事は仕ねえが宜《え》い、そろ/\参《めえ》りましょう、提灯を持っておくんなせえ、先へ立って」
若「お前ね、私は嬉しいと思ったら草臥れが脱《ぬ》けたから宜《い》いよ」
清「まアぶっされよ」
若「宜いよ」
清「宜《え》いたって大《えか》くなっていやらしく成ったもんだから
前へ 次へ
全47ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三遊亭 円朝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング