ラ鐵という名はない、鐵五郎《てつごろう》かえ」
鐵「へえ」
宗「宜しい」
鐵「御免なさい」
 と驚いて直《すぐ》に其の晩の内|此処《こゝ》を逃出して、夜通し高崎まで逃げたという。其様《そん》なに逃げなくとも宜しいのに。此方《こっち》はお竹が病苦の中にて此の話を聞き、どうか直に此処を立ちたいと云う。
宗「何うして今から立たれるものか、碓氷を越さなければならん」
 と稍《ようや》くの事で止めました。翌朝《よくあさ》になると、お竹は尚更|癪気《しゃくき》が起って、病気は益々重体だが当人が何分にも肯《き》きませんから、駕籠を傭《やと》い、碓氷を越して松井田《まついだ》から安中宿《あんなかじゅく》へ掛り、安中から新町河原まで来ますと、とっぷり日は暮れ、往来の人は途絶えた処で、駕籠から下りてがっかり致し、お竹はまたキヤ/\差込んで来ました。宗達は驚いて抱起したが、舁夫《かごや》は此処《こゝ》までの約束だというので不人情にも病人を見棄てゝ、其の儘ずん/\往ってしまいました。宗達は持合せた薬を服《の》ませ、水を汲んで来ようと致しましたが、他に仕方がないから、ろはつ[#「ろはつ」に傍点]という禅宗坊主の持つ碗《わん》を出して、一杯流れの水を汲んで持って来ました。漸《ようや》くお竹に水を飲ませ、頻《しき》りと介抱を致しましたが、中々|烈《はげ》しい事で、
竹「ウヽーン」
 と河原の中へ其の儘|反《そり》かえりました。
宗「あゝ困ったものじゃ、何うか助けたいものじゃ」
 と又薬を飲まし、口移しに水を啣《ふく》ませ、お竹を□□[#底本2字伏字]めて我《わが》肌の温《あたゝ》かみで暖めて居ります内に、雪はぱったり止み、雲が切れて十四|日《か》の月が段々と差昇ってまいる内に、雪明りと月光《つきあか》りとで熟々《つく/″\》お竹の顔を見ますと、出家でも木竹《きたけ》の身では無い、忽《たちま》ち起る煩悩に春情《しゅんじょう》が発動いたしました。御出家の方では先《ま》ず飲酒戒《おんしゅかい》と云って酒を戒め、邪淫戒と申して不義の淫事を戒めてあります。つまり守り難いのは此の戒《かい》でございます。此の念を断切《たちき》る事は何うも難《かた》い事です、修業中の行脚を致しましても、よく宿場女郎を買い、或《あるい》は宿屋の下婢《おんな》に戯れ、酒のためについ堕落して、折角積上げた修業も水の泡に致してしまう事があります、未《ま》だ壮《さか》んな宗達和尚、お竹の器量と云い、不断の心懸《こゝろがけ》といい、実に惚れ/″\するような女、其の上侍の娘ゆえ中々|凛々《りゝ》しい気象なれども、また柔《やさ》しい処のあるは真に是が本当の女で、斯《か》かる娘は容易に無いと疾《とう》から惚込んで、看病をする内にも度々《たび/\》起る煩悩を断切り/\公案をしては此の念を払って居りましたが、今は迷《まよい》の道に踏入《ふみい》って、我ながら魔界へ落ちたと、ぐっとお竹を□□[#底本2字伏字]める途端に、温《あたゝか》みでふと気が附いたお竹が、眼を開《あ》いて見ますと、力に思う宗達和尚が、常にもない不行跡《ふぎょうせき》、髭《ひげ》だらけの頬《ほお》を我が顔へ当てゝ、肌を開いて□□[#底本2字伏字]めて居りますから、驚いて、
竹「アレー、何を遊ばします」
 と宗達和尚を突退《つきの》けて向うへ駆出しにかゝる袖を確《しっ》かり押えて、
宗「お竹さん御道理《ごもっとも》じゃ、どうも迷うた、もうとても出家は遂げられん、私《わし》はお前の看病をして枕元に附添い、次の間に寐《ね》ていても、此の程はお前の身体《からだ》が利かんによって、便所へ行《ゆ》くにも手を引いて連れて行き、足や腰を撫《なで》てあげると云うのも、実は私が迷いを起したからじゃ、とても此の煩悩が起きては私は出家が遂げられん、真に私はお前に惚れた、□□□□[#底本4字伏字]私の云う事を肯《き》いてくだされば、衣も棄て珠数《じゅず》を切り、生えかゝった月代《さかやき》を幸いに一つ竈《べッつい》とやらに前を剃《そり》こぼって、お前の供をして美作国《みまさかのくに》まで送って上げ、敵《かたき》を討つような話も聞いたが、何《ど》の様《よう》な事か理由《わけ》は知らんが、助太刀も仕ようし、又何の様な事でも御舎弟と倶《とも》に力を添える、誠に面目ない恥入った次第じゃが、何うぞ私の言う事を肯いてくだされ」
 と云われ、呆れてお竹は宗達の顔を見ますと、宗達の顔色は変り、眼の色も変り、少し狂気している容子《ようす》で、掴《つか》み付きにかゝるのを突退《つきの》けて、お竹は腹立紛れに懐へ手を入れて、母の形見の合口の柄《つか》を握って、寄らば突殺すと云うけんまくゆえ、此方《こちら》も顔の色が違いました。
竹「宗達さん、あなたは怪《け》しからぬお方で、御出家のお身上《
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