母親《おふくろ》もいませんか」
侍「そう喋っては困りますな」
○「もう云いません、それから」
侍「ところが段々聞くと両親もなく、只一人|斯《かゝ》る山の中に居って、躬《みずか》ら自然薯《じねんじょ》を掘って来るとか、或《あるい》は菌《きのこ》を採《と》るとか、薪《たきゞ》を採るとか、女ながら随分荒い稼ぎをして微《かす》かに暮しておるという独身者《ひとりもの》さ、見れば器量もなか/\好《よ》い、色が白くて目は少し小さいが、眉毛が濃い、口元が可愛らしく、髪の毛の光艶《つや》も好《よ》し、山家《やまが》に稀《まれ》な美人で」
○「へえー、ふう成程」
侍「何とも云やアしない、まア黙ってお聞き」
○「へえ」
侍「拙者は修業の身の上で、好い女だとは思いましたけれど、猥《いや》らしい事を云い掛けるなどの念は毛頭ない」
○「それは何年頃《いつごろ》の事ですか」
侍「丁度五年|以前《あと》の事で」
○「あなたは幾歳《いくつ》だえ」
侍「其様《そん》な事を聞かなくとも宜《よ》い、三十九才じゃ」
○「老けているね……五年|以前《あと》、じゃア未《ま》だア壮《さかり》な時でごぜえやすな」
侍「左様」
○「へえ、それから何うしました」
侍「拙者の枕元へ水などを持って来て、喉《のど》が渇いたら召上れと種々《いろ/\》手当をしてくれる、蕎麦掻《そばがき》を拵《こしら》えて出したが、不味《まず》かったけれども、親切の志有難く旨く喰いました」
○「蕎麦粉は宜うごぜえやしたろうが、醤油《したじ》が悪かったに違《ちげ》えねえ、ぷんと来るやつで、此方《こっち》の醤油《したじ》を持って行《ゆ》きたいね」
侍「何を云っている」
○「へえ、それから」
侍「娘は向うの方へ一人で寝る、時は丁度秋の末の事、山冷《やまびえ》でどうも寒い、雨はばら/\降る」
○「成程/\うん/\」
侍「娘は何うしたか何時《いつ》までも寝ないようで」
○「うん(膝へ手を突き前へ乗出し)それから」
侍「拙者に夜具を貸してしまい、娘は夜具無しで其処《そこ》へごろりと寝ているから、どうも其方《そなた》の着る物を貸して、此の寒いのに其方が夜具無しで寝るような事じゃア気の毒じゃ、風でも引かしては宜しくないというと、いえ宜しゅうございます、なに宜しい事はない、掛蒲団《かけぶとん》だけ持って行ってください、拙者は敷蒲団をかけて寝るから、いゝえ何う致しまして、それならば旦那さま恐入りますが、貴方のお裾《すそ》の方へでも入れて寝かしてくださいませんかと云った」
○「へえー、ふう鐵もっと此方《こっち》へ出ろ、面白い話になって来た、旦那は真面目になってるが、能《よ》く見ると助平そうな顔付だ、目尻が下《さが》ってて、旨く女をごまかしたね、中々油断は出来ねえ、白状おしなさい」
侍「ま、黙ってお聞きなさい、苟《かりそ》めにも男女《なんにょ》七才にして席を同じゅうせずで、一つ寝床へ女と一緒に寝て、他《ひと》に悪い評でも立てられると、修行の身の上なれば甚だ困ると断ると、左様ならば御足《おみあし》でも擦《さす》らして下さいましと云った」
○「へえー、女の方で、えへ/\、矢張《やっぱり》山の中で男珍らしいんで、えへ/\/\成程うん」
侍「どうも様子が訝《おか》しい、変だと思った」
○「なに先で思っていたんでしょう」
侍「それから拙者は此方《こっち》の小さい座敷に寝ていると、改めて又枕元へ来てぴたりと跪《ひざまず》いて」
○「其の女が蹴躓《けつまず》きやアがったんで」
侍「蹴躓いたのではない、丁寧に手を突いて、先生|私《わたくし》は何をお隠し申しましょう、親の敵《かたき》を尋ねる身の上でございます」
○「うん、其の女が…成程」
侍「敵は此の一村《ひとむら》隔《お》いて隣村に居ります、僅《わずか》に八里山を越すと、現に敵が居りながら、女の細腕で討つことが出来ません、先方は浪人者で、私《わたくし》の父は杣《そま》をいたして居りましたが、山界《やまざかい》の争い事から其の浪人者が仲裁《なか》に入り、掛合《かけあい》に来ましたのを恥《はず》かしめて帰した事があります、其の争いに先方《さき》の山主《やまぬし》が負けたので、礼も貰えぬ所から、それを遺恨に思いまして、其の浪人が私の父を殺害《せつがい》いたしたに相違ないという事は、世間の人も申せば、私も左様に存じます、其の傍《そば》に扇子《せんす》が落ちてありました、黒骨の渋扇《しぶせん》へ金で山水が描《か》いて有って、確《たしか》に其の浪人が持って居りました扇子《おうぎ》で見覚えが有ります、どうか先生を武術修行のお方とお見受け申して、お頼み申しますが、助太刀をなすって敵《かたき》を討たして下さいませんか、始めてお泊め申したお方に何とも恐入りますが、助太刀をなすって本意を遂げさせて下されば、何《ど》の
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