婢「畏《かしこ》まりやした」
と立って行って大勢の所へ顔を出しまして、
「どうかあの皆さん相宿の方に病人がありやすから、余《あんま》り大《でけ》え声をして、わア/\笑わないように、喧しいと病人が眠り付かねえで困るだから、静《しずか》になさえましよ」
侍「はい/\宜しい……病人がいるなら止しましょう」
○「小声でやってくだせえ、皆《みんな》は虚《そら》っぺえ話《ばなし》で面白くねえ、旦那が武者修行をした時の、蟒蛇《うわばみ》を退治《たいじ》たとか何とかいう剛《きつ》いのを聞きたいね」
侍「左様さ拙者は是迄恐ろしい怖いというものに出会った事はないが、※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2−94−68]鼠《のぶすま》に両三度出会った時は怖いと思ったね」
○「ど何処《どこ》で」
侍「南部《なんぶ》の恐山《おそれざん》から地獄谷の向《むこう》へ抜ける時だ」
○「へえー名からして怖《おっか》ねえね恐山地獄谷なんて」
侍「此処《こゝ》は一騎打《いっきうち》の難所《なんじょ》で、右手《めて》の方《ほう》を見ると一筋《ひとすじ》の小川が山の麓《ふもと》を繞《めぐ》って、どうどうと小さい石を転がすように最《い》と凄《すさ》まじく流れ、左手《ゆんで》の方《かた》を見ると高山《こうざん》峨々《がゞ》として実に屏風を建てたる如く、誠に恐ろしい山で、樹《き》は生茂《おいしげ》り、熊笹が地を掩《おお》うている、道なき所を踏分け/\段々|下《お》りて来たところが、人家は絶《たえ》てなし、雨は降ってくる、困ったことだと思い、暫く考えたが路《みち》は知らず、深更《しんこう》に及んで狼にでも出られちゃア猶更と大きに心配した、時は丁度秋の末《すえ》さ、すると向うにちら/\と見える」
○「へえー、出たんでござえやすか、狼の眼は鏡のように光るてえから、貴方がうんと立止って小便《ちょうず》をなすったろう」
侍「なに、小便《ちょうず》などを為《し》やアせん」
○「それから」
侍「これは困ったものじゃ、彼処《あすこ》に誰か焚火《たきび》でもして居るのじゃアないかと思った」
○「成程山賊が居て身ぐるみ脱いでけてえと、お前さん引《ひっ》こぬいて斬ったんで」
侍「まゝ黙ってお聞き、そう先走られると何方《どっち》が話すのだか分らん、山賊が団楽坐《くるまざ》になっていたのではない、一軒の白屋《くずや》があった」
○「へえー山ん中に……問屋《といや》でしょう」
侍「なに茅屋《あばらや》」
○「え、油屋《あぶらや》」
侍「油屋じゃアない、壊れた家をあばらやという」
○「確《しっ》かりした家は脊骨屋《せぼねや》で」
侍「そう先走っては困る、其家《そこ》へ行って拙者は武辺修行《ぶへんしゅぎょう》の者でござる、斯《か》かる山中《さんちゅう》に路《みち》に踏み迷い、且《かつ》此の通り雨天になり、日は暮れ、誠に難渋を致します、一樹《いちじゅ》の蔭を頼むと云って音ずれると、奥から出て来た」
○「へえー肋骨《あばらぼね》が出て、歯のまばらな白髪頭《しらがあたま》の婆《ばゞあ》が、片手に鉈《なた》見たような物を持って出たんだね、一つ家《や》の婆で、上から石が落ちたんでげしょう」
侍「然《そ》うじゃアない、二八余りの賤女《しずのめ》が出たね」
○「それじゃア気が無《ね》え、雀が二三羽飛出したのかえ」
侍「賤女《しずのめ》」
○「えゝ味噌汁《おつけ》の中へ入れる汁の実」
侍「汁の実じゃアない、二八余り十六七になる娘が出たと思いなさい」
○「へえー家《うち》に居たんだね、容貌《おんな》は好《よ》うごぜえやしたろうね、容貌《おんな》は」
侍「そんな事は何うでも宜しいが、能《よ》く見ると乙《おつ》な女さ」
○「へえー、おい鐵、此方《こっち》へ寄れ、ちょいと見ると美《い》い女だが、能く見ると眇目《めっかち》で横っ面《つら》ばかり見た、あゝいう事があるが、矢張《やっぱり》其の質《たち》なんでしょう」
侍「足下《そっか》が喋ってばかり居っては拙者は話が出来ぬ」
○「じゃア黙ってますから一つやって下せえ」
侍「それから紙燭《しそく》を点《つ》けて出て来て、お武家さま斯様な人も通らん山中《やまなか》へ何うしてお出でなさいました、拙者は武術修業の身の上ゆえ、敢《あえ》て淋しい処を恐れはせぬが如何にも追々|夜《よ》は更けるし、雨は降って来る、誠に難渋いたすによって一泊願いたいと云うと、何事も行届《ゆきとゞ》きません、召上る物も何もございませんし、着せてお寐《ね》かし申す物もございません、それが御承知なれば見苦しけれども御遠慮なくお泊り遊ばせと、親切な女で汚い盥《たらい》へ谷水を汲んで来て、足をお洗いなさいというので足を洗いました」
○「へえー其の娘の親父か何かいましたろう」
侍「親父もいない、娘一人で」
○「へえー……
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