するようなことになれば、尚更慎まねばならん、所がどうも慎み難く、己が酔った紛れに無理を頼んだ時は、手前は否《いや》であったろう、否だろうけれども性来《せいらい》怜悧《りこう》の生れ付ゆえ、否だと云ったらば奉公も出来難《できにく》い、辛く当られるだろうと云うので、ま手前も否々《いや/\》ながら己の云うことを聞いてくれた処は、夫《そ》りア己も嬉しゅう思うて居《い》るぞよ」
菊「貴方また其様《そん》な事を御意遊ばしまして、あのお話だけは……」
大「いゝえさ誰にも聞かする話ではない、表向でないから、もう一つ役替《やくがえ》でも致したら、内々《ない/\》は若竹の方でも己が手前に手を付けた事も知っているが、己が若竹へ恩を着せた事が有るから、彼《あれ》も承知して居り、織江の方でも知って居ながら聊《いさゝ》かでも申した事はない、手前と己だけの話だが手前は嘸《さぞ》厭《いや》だろうと思って可愛相だ」
菊「あなた、何《なん》ぞと云うと其様な厭味なことばかり御意遊ばします、これが貴方身を切られる程厭で其様なことが出来ますものではございません」
大「だが手前は己に物を隠すの」
菊「なに私《わたくし》は何も隠した事はございません」
大「いんにゃ隠す、物を隠すというのも畢竟《ひっきょう》主従《しゅうじゅう》という隔《へだ》てがあって、己は旦那様と云われる身分だから、手前の方でも己を主人と思えば、軽卒《けいそつ》[#「軽卒」は「軽率」の誤記か]の取扱いも出来ず、斯う云ったら悪かろうかと己に物を隠す処が見えると云うのは、船上忠平は手前の兄だ、それが渡邊織江の家《うち》に奉公をしている、其処《そこ》に云うに云われん処があろう」
菊「何を御意遊ばすんだか私《わたくし》には少しも分りません、是迄私は何でも貴方にお隠し申した事はございません」
大「そんなら己から頼みがある、併《しか》し笑ってくれるな、己が斯《か》くまで手前に迷ったと云うのは真実惚れたからじゃ、己も新役でお抱《かゝえ》になって間のない身の上で、内妾《ないしょう》を手許《てもと》へ置いては同役の聞《きこ》えもあるから、慎まなければならんのだが、其の慎みが出来んという程惚れた切《せつ》なる情《じょう》を話すのだが、己は何も御新造《ごしんぞ》のある身の上でないから、行々《ゆく/\》は話をして表向手前を女房にしたいと思っている」
菊「どうも誠にお嬉しゅうございます」
大「なに嬉しくはあるまい……なに……真に手前嬉しいと思うなら、己に起請《きしょう》を書いてくれ」
菊「貴方、御冗談ばかり御意遊ばします、起請なんてえ物を私《わたくし》は書いた事はございませんから、何う書くものか存じません」
大「いやさ己の気休めと思って書いてくれ、否《いや》でもあろうが其《そ》れを持っておれば、菊は斯ういう心である、末々《すえ/″\》まで己のものと安心をするような姿で、それが情だの、迷ったの、笑ってくれるな」
菊「いゝえ、笑うどころではございませんが、起請などはお止し遊ばせ」
大「ウヽム書けんと云うのか、それじゃア手前の心が疑われるの」
菊「だって私《わたくし》は何もお隠し申すことはありませんし、起請などを書かんでも……」
大「いや反古《ほご》になっても心嬉しいから書いてくれ、硯箱《すゞりばこ》をこれへ……それ書いてくれ、文面は教えてやる……書かんというと手前の心が疑《うたぐ》られる、何か手前の心に隠している事が有ろう、然《そ》うでなければ早く書いてくれ」
菊「はい……」
とお菊は最前大藏が飴屋の亭主を呼んで、神原四郎治との密談を立聞《たちぎゝ》をしたが、其の事でこれを書かせるのだな、今こゝで書かなければ尚疑われる、兄の勤めている主人方へお屋敷の一大事を内通をする事も出来ん、先方の心の休まるように書いた方が宜かろうと、羞《はず》かしそうに筆を執りまして、大藏が教ゆる通りの文面をすら/\書いてやりました。
大「まア待て、待て/\、名を書くのに松蔭と書かれちゃア主人のようだ、何処までも恋の情でいかんければならん、矢張ぷっつけに[#「ぷっつけに」は「ぶっつけに」の誤記か]大藏殿と書け」
菊「貴方のお名を……」
大「ま書け/\、字配りは此処《こゝ》から書け」
と指を差された処へ筆を当てゝ、ちゃんと書いた後《のち》、自分の名を羞かしそうにきくと書き終り、
菊「あの、起請は神に誓いまして書きますもので、血か何か附けますのですか」
大「なに血は宜しい、手前の自筆なれば別に疑うところもない、あゝ有難い」
押戴《おしいたゞ》いて巻納《まきおさ》めもう一盃《いっぱい》。と酒を飲みながら如何《いか》なることをか工《たく》むらん、続けて三盃《さんばい》ばかり飲みました。
大「あゝ酔った」
菊「大層お色に出ました」
大「殺して居た酒が一時《いちじ》に
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