は有りませんが、御家老へ此の向うから月の上《あが》ります景色を………これは御馳走でございます、求めず天然の楽《たのし》みで、幸い今宵は満月の前夜で」
數「おゝ成程な、いやかけ違って染々《しみ/″\》挨拶もしなかったが、段々と上屋敷の事も下屋敷の事も、貴公が大分に骨を折って大きに殿様にも格別に思召《おぼしめ》し、新参でありながら、存外の昇進で、えらいものだ」
大「えへゝゝ、不束《ふつゝか》の大藏格別|上《かみ》のお思召《ぼしめ》しをもちまして、重きお役を仰付けられ、冥加至極の儀で、此の上とも何卒《どうぞ》御家老のお引立を蒙《こうむ》りたく存じます」
數「其様《そん》なに出世をしては往《ゆ》く処があるまい、中々どうして男は好《よ》し、弁に愛敬を持ち、武芸も達しておるから自然と昇進をする質《たち》だ」
大「えゝ、恐入りました事で」
數「手前も壮年の折柄《おりから》は一体虚弱だが、大きに老年に及んで丈夫になったが、どうも歯が悪くなって、旨い物を喰《た》べても余り旨いとは思わん、楽しみと云っても別になし、国に居《お》れば田舎侍だから美食美服は出来んばかりでは無い、一体若い時分からそういう事は嫌いじゃ、斯ういう清々《せい/\》とした処を見るが何よりの楽しみじゃの」
大藏は座を進ませまして、
大「えゝどうも今日《こんにち》は何もお慰《なぐさ》みもなく、お叱りを受けるかは存じませんが、亭主が深川の芸者を呼び置きましたと申すことで、一寸《ちょっと》お酌を取りましても、武骨な松蔭や秋田屋がお酌をいたしましては、池田伊丹の銘酒も地酒程にも飲めんようなことで、甚だ御無礼ではございますが、お目通りへ其の深川の芸者どもを呼寄せることに致します」
數「おゝ成程その噂は聞いている、深川には大分美人も居《お》り、芸の好《よ》いものも居《お》るという事だが、それは宜《よ》いの、手前は芸者に逢った事はない、武骨者で殊《こと》に岩越という男が是非一緒に往《ゆ》きたい、何でも連れてってくれ、未《いま》だ碌に御府内を見たことが無いというから同道して来たが、起倒流《きとうりゅう》の奥儀を究《きわ》めあるだけあって、膂力《ちから》が強いばかりで、頓と風流気《ふうりゅうぎ》のない武骨者じゃ」
岩越「えゝ拙者は岩越|賢藏《けんぞう》と申す至って武骨者で此の後《ご》ともお見知り置かれて御別懇に」
大「今日《こんにち》
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