小指一本ぐらい切られても構わんなどゝ、度胸で奉公にまいる者がありますが、薄作だからつい過《あや》まっては毀して指を切られ、だん/\此の話を聞伝えて奉公に参る者がなくなりました。陶器と申す物も唐土《から》には古来から有った物ですが、日本では行基菩薩《ぎょうきぼさつ》が始まりだとか申します。この行基菩薩という方は大和国《やまとのくに》菅原寺《すがわらでら》の住僧《じゅうそう》でありましたが、陶器の製法を発明致されたとの事であります。其の後《ご》元祖|藤四郎《とうしろう》という人がヘーシを発明致したは貞応《ていおう》の二年、開山|道元《どうげん》に従い、唐土へ渡って覚えて来て焼き始めたのでございましょうが、これが古瀬戸《こせと》と申すもので、安貞《あんてい》元年に帰朝致し、人にも其の焼法《やきほう》を教えたという。是《こ》れは今《こん》明治二十四年から六百六十三年|前《ぜん》のことで、又|祥瑞五郎太夫《しょんずいごろだゆう》頃になりまして、追々と薄作の美くしい物も出来ましたが、其の昔足利の時代にも極《ごく》綺麗な毀れ易い薄いものが出来ていた事があります。丁度|明和《めいわ》の元年に粂野美作守《くめのみまさかのかみ》高義公《たかよしこう》国替で、美作の国|勝山《かつやま》の御城主になられました。その領内南粂郡東山村の隣村《りんそん》に藤原村《ふじわらむら》と云うがありまして、此の村に母子《おやこ》暮しの貧民がありました。母は誠に病身で、千代《ちよ》という十九の娘がございます、至って親孝行で、器量といい品格といい、物の云いよう裾捌《すそさば》きなり何うも貧乏人の娘には珍らしい別嬪で、他《た》から嫁に貰いたいと云い込んでも、一人娘ゆえ上げられないと云う。尤も其の筈で、出が宜しい。これは津山《つやま》の御城主、其の頃|松平越後守《まつだいらえちごのかみ》様の御家来|遠山龜右衞門《とおやまかめえもん》の御内室の娘で、以前は可なりな高を取りました人ゆえ、自然と品格が異《ちが》って居ります。浪人して二年目に父を失い永らくの間浪々中、慣れもしない農作や人の使いをして僅《わず》かの小畠《こはた》をもって其の日をやっと送って居《お》る内に、母が病気附きまして、娘は母に良い薬を飲ませたいと、昼は人に雇われ、夜は内職などをして種々《いろ/\》介抱に力を尽しましたが、母は次第に病が重《おも》りまし
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