の上へ黒縮緬《くろちりめん》の羽織を引ッかけ、糠袋に手拭を持ってお村の宅《うち》の門口へ立ちまして、
 つき「お村はん在宅《うち》かえ」
 さき「おやおつき姉さん、まアお入りよ、あれさお入りよ、湯かえ、いゝじゃないか、種々《いろ/\》お前さんにお礼の云いたい事もあるから一寸《ちょっと》お入りよ」
 月「寒いじゃないか、お母《っか》さん、御無沙汰をしました」
 さ「お寒くなりました、段々|押詰《おしつま》って来るから何《なん》だか寒さがめっきり身に染《し》みますよ、今一杯始めた処サ」
 月「朝からお酒で大層景気が好《い》い事ねえ」
 さ「一つお上りなはいな」
 月「昨宵《ゆうべ》ね少し飲過ぎてお客のお帰んなすったのも知らないくらいに酔い潰《つぶ》れたが、例《いつも》のきまりだから仕方がない」
 さ「失礼だが一杯お上りよ、私がお酌をするよ、本当に姉さんはお村を彼此《かれこれ》云ってくださるから有難い事だって、平常《ふだん》そう云っているのだよ、何《なん》でも姉さんの云う事を肯《き》かなけりゃいけねえって、そう云っているのだから、何事も差図をしてお貰い申す積りさ、何《なん》てっても未《ま》だ年がいかねえから、時々|跣足《はだし》でお座敷から駈け出して帰って来たりするから、何《なん》とかお思いかと心配してるのサ」
 月「お母《っか》さんは何時《いつ》も壮健《たっしゃ》だねえ」
 さ「えゝ私《あたし》ア是まで寸白《すばく》を知りませんよ、それに此間《こないだ》は又結構なお香物《こう/\》をくだすって有難うございました、あれさ、お重ねよう」
 月「お母さん、あのお村はんは居《い》るかえ」
 さ「あゝ今二階で化粧《みじめえ》して居《お》りますの、どうせ閑暇《ひま》だが又|何時《いつ》口が掛るかも知れないから、湯に遣《や》って化粧《けしょう》をさせて置くのサ……二階に居りますが何か用が有るのかえ」
 月「そうかえ、少しお村はんの事に就《つ》いて話があるんだが、あの三浦屋から十二三度呼びによこした本所割下水の剣術の先生の御舎弟《ごしゃてい》さんだというから、御舎さん/\という人は、取巻《とりまき》が能《よ》くって金が有るので、一寸様子が好《い》いから、浮気な芸者は岡惚れをするくらいだが、彼《あ》の人がお村はんに大変惚れてゝ、私にお月取持ってくれ/\と種々《いろ/\》云うから、私があの妓《こ》は堅くて無駄だからお止し、いけないと云っても中々|肯《き》かないで逆上《のぼせ》切ってるのサ、芸者を引きたければ華《はなや》かにして箱屋には総羽織《そうばおり》を出し、赤飯を蒸《ふか》してやる、又芸者をしていたいのならば出の着物から着替から帯から頭物《あたまのもの》まで悉皆《そっくり》拵《こしら》えて、お金は沢山《たんと》は出来ねえが、三百両や四百両ぐらいは纒《まと》めて遣《や》ると斯《こ》ういう旨い口だ、私などは願っても出来やしない、余《あんま》り宜《よ》い口だから、否《いや》でもあろうが諾《うん》とさえ云えば大《たい》した事に成るのだから話をして見るんです」
 さ「おや/\それは誠に有難い事ねえ、本当に私は夢のような心持がします、今時そんな方が出て来るものではないのだが、全く姉さんのお取做《とりなし》が宜いからで、乙なもので何《なん》でも太鼓の叩き次第だからねえ、早速お村に申しましょう、お村や/\一寸降りて来《き》なよ」
 村「あい」
 と優しい声で返辞をして、しとやかに二階から降りて参り、長手の火鉢の角の処へ坐り、首ばかり極彩色《ごくざいしき》が出来上り、これから十二|一重《ひとえ》を着るばかりで、お月の顔を見てにこりと笑いながら、ジロリと見る顔色《かおいろ》は遠山《えんざん》の眉《まゆ》翠《みどり》を増し、桃李《とうり》の唇《くちびる》匂《にお》やかなる、実に嬋妍《せんけん》と艶《たお》やかにして沈魚落雁《ちんぎょらくがん》羞月閉花《しゅうげつへいか》という姿に、女ながらもお月は手を突いてお村の顔に見惚《みと》れる程でございます。
 村「姉さんお出《いで》なはい」
 月「お村はん、今お母《っか》はんに三浦屋の御舎さんの事を話したのだが、諾《うん》とさえ云えば大した事になるのだよ、嘸《さぞ》此間《こないだ》からお前に種々《いろ/\》な事を云うだろうね」
 村「あゝ、来るたんびに変な事を云って困るよ」
 月「私にも種々云ってしょうがないから、騙《だま》かして云い延べて置いたが、責《せめ》られてしょうがないよ」
 さ「お村や、諾《うん》とお云いよ、有難い事だ、姉さんが何とか、日光《にっこう》御社参《ごしゃさん》とかいうお方が妾になれと仰しゃるのは有り難い事だから、諾とお云いよ」
 村「姉はん、それは男も醜くはなし綺麗なような人だが、何だか私は虫が好かない、彼《あ》の人の傍《そば》に坐ると厭な心持になりますよ、そうして反身《そっくり》かえって煙管《きせる》を手の先で振廻し、落してお皿を欠いたり、鼻屎《はなくそ》をほじくっては丸薬にしたりして何《なん》だか厭だよ」
 月「そうサ、変な処があるよ、気には入るまいが持物になって仕舞えば又好きな事も出来るわねえ」
 さ「有難いことだから諾《うん》とお云いよ、おい諾と云わないかよ」
 村「厭な事、私は死んでも厭だよ」
 さ「馬鹿な事をお云いでない、お前が諾と云えば私までが楽になるのだから親孝行だよ、それにお前は春の出の姿《なり》に気を揉んで居て一から十まで新しい物にしたがり、彼《あ》の縮緬《ちりめん》のお前さんが知ってる紋付さ、あれを色揚げをして置けば結構だと言えば、紋が黒くなると言うから、そうしたら薄い昇平《しょうへい》を掛ければ知れやしないと云うのに、何《なん》でも新しい姿《なり》ばかりしたがる癖にさ、私などの若い時分と違って好《い》い姿《なり》計りしたがったり、芝居へも往《ゆ》き、したいこともしたければ、諾と云って其の人を取らないと肯《き》かないよ」
 村「でも柳橋の芸者が旦那取りをしたと云っては第一姉さん達の恥になり、私も外聞が悪いから、能《よ》くは出来ないが私だけは芸一方で売る心持でいますから、どうかそんな色めえた事を云うお客はぴったり断って下さいまし」
 月「お村はんが否《いや》だと云うならどうもしようがない」
 さ「おい本当にいけない餓鬼だよ、サ諾と云いな、否か、どうあっても否か、下を向いて返辞をしないのは否なのか、否だなどと云えば唯《たゞ》は置かねえよ」
 と云いながら手に持った長羅宇《ながらお》を振上げさま結《ゆい》たての嶋田髷《しまだまげ》を打擲《ちょうちゃく》致しましたから櫛《くし》は折れて飛びまする。
 月「あゝ危いよ、あれさ怪我でもさしたらどうする積りだよ」
 さ「お止めなさるな、止めると癖になります、太い阿魔でございます、これ何《なん》だと、芸一方で売りたいと、それはお月姉さんのような立派なお方の云う事だ、お前なんぞは今日此の頃芸者になり、一人前《いちにんめえ》になったのは誰のお蔭だ、お前が七歳《なゝつ》の時、親兄弟もない餓鬼を他人の私が七両の金を出して貰い切り世話をしたのだが、其の時は青膨《あおぶく》れだったが、私の丹誠で段々とお前さん胎毒|降《くだ》しばかりも何《ど》の位飲ましたか知れやしません、芸を仕込めば物覚えが悪く、其の上|感所《かんどころ》が悪いもんだから、撥《ばち》のせい尻《じり》で私は幾つ打《ぶ》ったか知れません、踊《おどり》を習わせれば棒を呑んだ化物《ばけもの》を見たように突立《つッたッ》てゝしょうが無かったのを、漸々《よう/\》此の位に仕上げたから、これから私が楽をしようと思ってるに、否《いや》も応《おう》もあるものか、親の言葉を背く餓鬼ならば女郎《じょうろ》にでも叩き売って仕舞います、利《き》いた風《ふう》な、芸一方で売るって私は知らねえ振りをしていれば、手前《てめえ》の好いた男なら上流《うわて》くんだりまで往って寝泊りをして来やアがるだろう、私は知るめえと思ってようが、芝口《しばぐち》の袋物屋の番頭に血道を揚げて騒いでいやアがる癖に」
 月「まア静《しずか》におしよ、世間へ聞えると見《みっ》ともない、お村はんは私が篤《とっ》くり意見をして得心させるから私にお任せよ」
 と泣いて居りまするお村の手を取って二階へ連れて上り、
 月「お村はん勘忍しておくれよ、本当に邪慳《じゃけん》なお母《っか》さんだ、太い煙管でお前の顔を無茶苦茶に打《ぶ》って怪我でもしたら何《ど》うする積りなんだろう、怖いお母さんだねえ、今までお前はまア能くあのお母さんの機嫌を取ってお出《いで》たねえ」
 村「姉さん、誠にお前さんの云う事を肯《き》かないで済みませんが、私も七歳《なゝつ》から育てられ、お母さんの気性も知っていますが、彼様《あんな》邪慳な人は世に余《あん》まり有りません、此の頃のように寒い時分に夜遅く帰って来れば、寝衣《ねまき》を炬燵《こたつ》に掛けて置いて寒かろうからまア一ト口飲めと、義理にも云うのが当然《あたりまえ》だのに、私が更けて帰ると、お母さんは寝酒に旨い物を喰《た》べてグウ/\大鼾《おおいびき》で寝て仕舞い、火が一つ熾《おこ》ってないから、冷たい寝衣を着て寝てしまい、夜が更けるからつい朝寝をすると、起ろ/\と足で蹴起《けおこ》して、お飯《まんま》を炊けと云って御膳を炊くやらお菜拵《かずごしら》えをして仕舞うと、起きて来て朝から晩まで小言|三昧《ざんまい》、ヤレ彼《あ》の旦那を取れ、此の旦那の妾になれと今まで云われた事は何度あるか知れやしないが、漸々《よう/\》云抜けては置いたが、辛くって/\今日は駈出そうか、明日は迯《に》げようかと思った事もあったけれど、外《ほか》に身寄親類もないから駈出しても往《ゆ》き処《どこ》がない私ゆえ堪《こら》えてはいましたが、今日という今日は真に辛いから私は駈出して、身を投げて死にますよ」
 月「馬鹿な事をお云いでないよ、私が悪かった、お母さんの前で直《すぐ》に彼《あ》の事を云わなければ宜《よ》かった、私は蔭でチラリと聞いたのだが、お前は友之助《とものすけ》さんとは深い中で、それがため義理の悪い借金も出来ているから、結局《つまり》二人で駈落《かけおち》などいう軽卒《かるはずみ》な事でもしやしないか、困ったものだと云う事が私の耳に入っているが、私も兄弟は無し、心細いから平常《ふだん》親切にしておくれのお前と、末々まで姉妹分《きょうだいぶん》になりたいと思う心から案じているのだが、それは厭に違いはないが、友さんの為なら厭な旦那もお取りかと私は考えてるが、友之助さんの為だと諦めて舎弟の云う事を聞けば、纒《まと》まったお金を幾らか私が貰って上げるから、それで内証《ないしょ》の借金を払い、二百両か三百両の金を友さんにも遣り、借金の方《かた》を附け、可なり身形《みなり》を拵《こしら》え、時々は私が騙《だま》かして拠《よんどころ》ないお座敷で帰りが遅くなると云って上げるから、厭でもあろうが只《たっ》た一度、舎弟と枕《まくら》を並べて寝て遣れば、どんなに悦ぶか知れない、それは厭だろうが、其の時は私が密《そっ》と友さんを他《ほか》に呼んで置いてお前に逢わせ、口直しを拵えて置くからねえ、私も責められて困るからよ」
 村「はい/\姉さん私も友之助さんに対して旦那を取っては済まず、又私が身を斬られるほど辛いけれども、姉さんの折角のお頼みと云い、お母さんの様子では女郎《じょうろ》にも売り兼ねやアしまいから、死んだ心になって旦那を取りましょうよ」
 月「おや本当に、どうもまア好《よ》く諦らめておくれだ、本当に可愛そうだけれども、じゃア其の積りだよ」
 と云いながら慌てゝ音のするように梯子《はしご》を降りて参り、おさきに向い、
 月「私が段々話をした処が、済まなかった、随分|宜《よ》い人だと思っていたが、まさかにお母さんの前で旦那が取りたい惚れているとも云いにくいから、しぶ/\していて、打《ぶ》たれるだけが損だったと云っているから、お前も機嫌を直して可愛相だから優
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