《い》い加減のことを云ったのか、小野庄左衞門が貧乏して居《お》るから金にふるえ付くかと思って金を持って来たか」
 秋「これサ御立腹では恐入ります、実は」
 庄「黙んなさい、嫁に貰いようを知らんものがあるかえ、仮令《たとえ》浪人者でも、一人の娘を妾にはせん、婚礼の式は正しゅうしなければならん、お前の先生は嫁の貰いようを御存じないか、見合いも致さず、結納《ゆいのう》も取交《とりかわ》さず、媒妁も入れなければ婚姻にはならん、汚らわしい金なんぞは持って帰らっしゃれ」
 と膝の所へ金を打付《うちつ》けました。
 八十「これはしたり、何も金を持って来る訳ではござらんが、師匠が申したから持って参ったので」
 庄「師匠が金を持って往《ゆ》けと云ったら何故止めん、金を持って往けば先方で立腹するだろうとか何《なん》とか云って、止めなければならんのが弟子の道であるに、師匠が申付《もうしつ》けだと云って、それをいゝ事と心得、何故持って参った、師匠が馬鹿なら弟子まで馬鹿だ、馬鹿|士《ざむらい》とは汝《なんじ》のことだわい」
 八十「此奴《こいつ》なんだ、怪《け》しからん、無礼至極」
 と云いながら長柄《ながつか》へ手をかけて抜こうとすると、小野は丸で見えんのではないから持って居った煙管《きせる》で臂《ひじ》を突きますと、八十兵衞は立上ろうとする途端にひょろ/\として尻餅を突くと、家《うち》が狭いから上流《うわなが》しへ落ちに掛りますと、上流しが腐って居りますから、ドーンと下流しへ落ちました、丸で馬陸《やすで》を見たようです。八十兵衞は愈々《いよ/\》立腹致し、刀を振上げて斬ろうとするから、穗庵もぴかりっと抜きましたがこれはぴかりっとは参りません、錆《さ》びて居りますから赤い粉がバラ/\と出て、ガチ/\/\と鉈《なた》のようなものを抜いて今斬ろうとする。庄左衞門は破《や》れた戸棚《とだな》からたしなみの刀を出してさア来いと云う。娘は慄《ふる》えながら両手をついて、
 町「何卒《どうぞ》お願いでございます、親父は眼病でございますから御勘弁なすって下さいまし」
 と云って泣いている騒ぎを、長屋の者が聞付け、一同心配していると、國藏も引越した計《ばか》り故驚きましたが、此の騒ぎを見て帰って来て、
 國「お浪、旦那をお帰《けえ》し申して、怪我をなすっちゃアいけねえからお帰《けえ》し申しな」
 文「何《な》んだ」
 國「今隣りの婆《ばあ》さんに聞くと、隣の娘を剣術遣いが妾にしてえ、銭も遣るから云う事を聞いてくれと云うと、その浪人者が飛んでもねえことを云うな、金に目をくれて娘を遣る奴があるものか、見損なやアがったか間抜野郎と云うと、剣術遣いが、おや此《こ》ん畜生《ちくしょう》なんだ此の唐偏木《とうへんぼく》め、貧乏をしているから助けて遣ろうというのだ、生意気な事をぬかしゃアがるなと云うので打合《たゝきあ》いが始まる、剣術遣いがその親父を斬ろうとする、娘が泣き出す、親父は眼こそ見えねえが中々聞かねえで、斬るなら斬れと云う喧嘩の最中だから旦那出ちゃアいけませんぜ」
 文「なに、一軒|隔《お》いて隣は小野|氏《うじ》の家に相違ないが、小野に怪我があっては相成らんゆえ、私《わし》が往って取鎮《とりしず》めて遣ろう」
 國「旦那が怪我をしちゃアなりませんからお止しなせえ」
 文「捨置く訳にはいかん、そこを放せ」
と云いながら日和《ひより》下駄を穿《は》いたなりで駈出《かけだ》し、突然《いきなり》喧嘩の中へ飛込みますると云うお話に相成りますのでございますが、一寸《ちょっと》一服致します。

  四

 偖《さて》本所松倉町なる小野庄左衞門の浪宅へ、大伴蟠龍軒《おおともばんりゅうけん》と申しまする一刀流の剣術遣いの門弟和田原八十兵衞と、秋田穗庵という医者が参り、娘お町をくれろとの掛合《かけあい》になりましたが、庄左衞門は堅いから向うで金を出したのを立腹して、一言二言《ひとことふたこと》の争《あらそい》より遂にぴかつくものを引抜き、狭い路地の中で白昼に白刃《はくじん》を閃《ひらめ》かし、斬合うという騒ぎに相成りましたから、裏長屋の者は恟《びっく》り致し、跣足《はだし》で逃げ出す者もあり、洗濯|婆《ばあ》さんは腰を抜かし、文字焼《もんじやき》の爺《じい》さんは溝《どぶ》へ転げ落るなどという騒ぎでございます。文治郎は短かいのを一本差し日和下駄を穿き、樺茶色《かばちゃいろ》の無地の頭巾を眉深《まぶか》に被《かぶ》って面部を隠し、和田原八十兵衞の利腕《きゝうで》を後《うしろ》からむずと押え、片手に秋田穗庵が鉈のような恰好《かっこう》で真赤に錆びたる刀を振り上げた右の手を押えながら、
 文「暫く/\何卒《どうぞ》暫くお待ちください、何事かは存じませんが、まア/\お話は後《あと》で分りまする事ですから、手前へお免じください、暫くお待ちください、まア/\」
 と後《うしろ》から押しまする。和田原八十兵衞は長いのを振上げたなり、
 八十「邪魔致すな其処《そこ》放せ」
 と云いながらこちらを振り向うとすると、ギュッと手を逆に捻《ねじ》る、七人力も有ります人に苛《ひど》く利き処を押えられ、痛くて向く事が出来ませんから、又|左方《こちら》へ向うとすると、右へ捻りまするから八十兵衞は右と左へぐる/\して居ります。文治郎は、
 文「暫く/\」
 といいながら狭い路地を押し出して、表へ連れて参りました。後《あと》には娘お町が有難いお人だと悦んで居りました。國藏は又|頻《しき》りに心配して、ぐる/\駈廻《かけまわ》って居りまする処へ文治郎が立帰《たちかえ》って参り、
 文「先《ま》ずお怪我がなくてお目出とうございました」
 町「おや、あなたは先程の文治郎さま、未《ま》だお帰りにはなりませんでしたか」
 文「御同長家《ごどうながや》の内に懇意な者が居りますので、おゝこれ此処《こゝ》に居ります此の國藏の宅に今まで居りました処、此の騒ぎ、怪《け》しからん奴でございましたなア」
 町「お父様《とっさま》、先程の文治郎様が今の人達を連れ出してくださいましたとの事、お礼を仰しゃいまし」
 庄「誠に種々《いろ/\》御厄介に相成りました、余り不法を申しますから残念に心得、一言二言云うと貴方《あなた》、白刃《はくじん》を振廻《ふりま》わし、此の狭い路地を荒す無法の奴でございます」
 國「もし旦那、彼奴等《あいつら》を何処《どこ》へ連れてお往《い》でなさいやしたえ」
 文「ウン、表の割下水《わりげすい》の溝《どぶ》の中へ投《ほう》り込んで来た」
 國「えゝ溝の中へ投り込んで来たとえ、苛《ひど》い事をお行《や》りなすったねえ、今に上ってきやアしませんか」
 文「上っても腕は利かん、逆に捻って胴を下駄で強《ひど》く蹴《け》て、手足を挫《くじ》いて置いたから這い上って帰るだろう」
 國「へえ苛い事をなさるねえ、私《わっち》は又|何処《どっ》かの待合茶屋《まちあいぢゃや》へでも連れてって、扨《さて》如何《いかゞ》の次第でございますか、兎に角任せて下さいと云って、お前《めえ》さんが仲人《ちゅうにん》に入って、茶か何か呑ませているんだろうと思って居りました」
 文「茶などを呑ませてたまるものか、彼奴等《あいつら》は溝《どぶ》の水で沢山だ」
 國「だがねえ旦那え、それは好《い》いが、お前《めえ》さん藪《やぶ》を突《つッつ》いて蛇を出してはいけませんぜ、是りゃアとんでもない喧嘩になりますぜ」
 文「なぜ」
 國「何故ったってお前《めえ》さん、溝《どぶ》の中へ投《ほう》り込まれて黙っている奴はねえ、殊に相手は剣術遣い、兄弟弟子も沢山有りましょう、構ア事はねえ押込んで往《い》けと二十人も遣《や》って来られた日にゃ大騒ぎですぜ」
 文「それは来る気遣《きづかい》はない、心あるものなら師匠が止める、私《わし》は顔を隠して置いたから相手は知れない、そこで溝へ投り込んだのは私《わし》だか何《なん》だか訳が分らないから、心ある師匠なら一時《いちじ》止まれと言って止めるなア」
 國「師匠に心が有るか無いか知りませんけれども、お前《めえ》さん喧嘩に往くのに断って出るものが有りますか、私達《わっちたち》が湯屋で間違《まちげえ》をして拳骨の一ツも喰《くら》って来て、友達が之《これ》を聞いて外聞が悪いから押して往けと言う時に、親方へ一寸《ちょっと》喧嘩に往って来ますと断って出る者は有りますめえ、密々《こそ/\》と抜け出して出し抜《ぬけ》にわッと云って、大勢が長いのを振舞わして此処《こゝ》へ遣って来られた日にゃ大変じゃありませんか」
 文「もしや来たらお浪を遣《よこ》して私《わし》に知らせろ、そうして私《わし》の来る間|手前《てめえ》は路地口の処へ出て掛合っていろ、手前《てまえ》は此の長屋の行事でございますが、何《ど》ういう訳で左様に長い物を振《ふる》って町家《ちょうか》をお荒しなさいまする、その次第を一応手前にお告げ下さいと云って出ろ」
 國「そりゃ否《いや》だね、行事だ詰らねえ事を云う、面倒臭いと斬られてしまいましょう、否《い》やだアねえ」
 文「若《も》し来たら知らせれば宜《よ》い、左様なら」
 と足を早めて往《ゆ》きますから、
 國「もし旦那、もし、あれだもの仕様がない、あれ旦那」
 と云うを耳にも止めず文治郎は平気《すまし》て帰って往《ゆ》きます。國藏は頻《しき》りに心配して大家さんへ届けたり、自身番を頼んだりぐる/\騒いで居りますると、文治郎の鑑識《めがね》に違《たが》わず、それっ切り仕返しにも来ませんでしたが、後《のち》に小野庄左衞門は蟠龍軒から怨《うらみ》を受け、遂に復讎《ふくしゅう》の根と相成りまするが、お話変ってこれは十二月二十三日の事で、両国《りょうごく》吉川町《よしかわちょう》にお村と云う芸者がございましたが、その頃|柳橋《やなぎばし》に芸者が七人ありまする中で、重立《おもだ》った者が四人、葮町《よしちょう》の方では二人、後《あと》の八人は皆《み》な能《よ》い芸者では無かったと申します。丁度深川の盛んな折でございます、その頃|佐野川市松《さのがわいちまつ》という役者が一と小間置《こまおき》に染め分けた衣裳へ工夫致しましてその縞《しま》を市松と名《なづ》けて女方《おんながた》の狂言を致しました時に、帯を紫と白の市松縞にして、着物を藍《あい》の市松にしたのが派手で、とんだ配合《うつり》が好《よ》いと柳橋の芸者が七人とも之を着ましたが中にも一際《ひときわ》目立って此のお村には似合いました処から、人之を綽名《あだな》して市松のお村と申しました。年は十九歳で親孝行で、器量はたぎって好《よ》いと云うのではありませんが、何処《どこ》か男惚《おとこぼ》れのする顔で、愛敬靨《あいきょうえくぼ》が深く二ツいりますが、尺《ものさし》を突込《つッこ》んで見たら二分五厘あるといいますが、誰《たれ》か尺を入れたと見えます。其の上しとやかで物数《ものかず》を云わず、偶々《たま/\》口をきくと愛敬があってお客の心を損ねず、芸は固《もと》より宜《よ》し、何一つ点を打つ処はありませんが、朝は早く起きて御膳焚《ごぜんたき》同様にお飯《まんま》を炊き、拭掃除《ふきそうじ》を致しますから、手足は皹《ひゞ》が絶えません、朝働いて仕まってからお座敷へ出るような事ですから、世間の評が高うございます、此の母親《おふくろ》はお崎《さき》婆《ばゞあ》と申しまして慾張《よくばり》の骨頂でございます、慾の国から慾を弘めに参り、慾の新発明をしたと云う、慾で塊《かたま》って肥《ふと》って居りまする。慾肥《よくぶと》りと云うのはこれから始まりました。娘お村に稼がせて自分は朝から酒ばかりぐび/\飲んで居りますると、矢張り此の頃の老妓《あねえ》で、年は二十七歳に相成りまする、お月と申します脊《せい》はすっきりとして芸が好《よ》く、お座敷でお客と話などをして居ります間に取持《とりもち》が上手と評判の芸者でありました。此の頃の老妓は中々見識のあったもので、只今湯に出かけまする姿ゆえ、平常着《ふだんぎ》
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