すと、母はすや/\寝るようでございますから抜け出そうとすると、
 母「文治、何処《どこ》へ行《ゆ》きます」
 文「鳥渡《ちょっと》お湯を飲みとうございますから次の間へ参ります」
 母「私もお湯を飲みたいから此処《こゝ》へ持って来て下さい」
 と云う。又少したって寝たようだから抜けようとすると文治々々と呼びます。夜徹《よどお》し起します。昼は文治郎を出さぬように付いて居りますから、仕方なく七日八日|過《すご》します。母も其の中《うち》には文治郎の気が折れて来るだろうと思って居りました。お話し二つに分れまして、蟠龍軒はお村を欺き取って弟の妾にして、御新造《ごしんぞ》とも云われず妾ともつかず母|諸共《もろとも》に此《こゝ》に引取られて居ります。兄蟠龍軒は別間《べつま》に居りましたが、夕方になりましたから庭へ水を打って、涼んで居ります処へ来たのは阿部忠五郎という男でございます。七つ過ぎの黒の羽織にお納戸献上の帯を締め耳抉《みゝくじ》りを差して居ります。
 忠「誠に存外御無沙汰を致しました、どうも酷《きび》しいことでございます」
 蟠「これは能く来た、誠に暑いことで、先頃は色々お世話になりました」
 忠「先頃は度々《たび/\》お心遣いを頂戴致して相済まぬことで、あゝ首尾|好《よ》く行《ゆ》こうとは心得ません、お村さんは御舎弟さまの御新造さまとお取極《とりきま》りになったのでございますか」
 蟠「何処《どこ》からも臀《しり》も宮《みや》も来ず、友之助は三百両持って取りに来ようという気遣いもない、先《ま》ず私《わし》も一と安心した」
 忠「御舎弟様の奥様が極って、お兄《あにい》様の奥様は何か極《きま》ったものはありませんか」
 蟠「どうも小意気なものは剣術|遣《つか》いの女房になる者はない」
 忠「昨年の暮浪人者の娘を掛合に往《い》った処が、御門弟を辱《はじ》しめて帰したことがございましたが、彼《あ》の儘でございますか」
 蟠「あれは彼《あ》の儘だ」
 忠「御門弟の方に聞きました処が、脇から妙な者が出て来て、先生のことを馬鹿士《ばかざむらい》とか申したと云って御門弟が残念がって居りました」
 蟠「丁度|好《よ》い幸いだ、貴公が来たのは妙だ、貴公の姿《なり》の拵えなら至極妙だ、少し折入《おりい》って頼みたいことがある、今に秋田穗庵が来るから穗庵から細かいことを聞いて、彼《あ》の浪人者の処へ往ってくれまいか」
 忠「何処《どこ》でございます」
 蟠「松倉町二丁目の葛西屋《かさいや》という蝋燭屋《ろうそくや》の裏に小野庄左衞門という者がある、其の娘を貰おうとした処が、私《わし》のことを馬鹿士とか何《なん》とか云ったが其の儘になって居《お》る」
 忠「能く御辛抱でございましたねえ」
 蟠「そこで仕返しをすると他《た》の人がやっても私《わし》のせいになるから、そんな小さい処へ取合わんで、時たってからと思って居った処が、去年の五月から今まで経《た》ったから丁度宜しい」
 忠「へー、あの時お腹立になれば仮令《たとえ》他《ほか》でやっても貴方がしたと思いますが、それを今までお捨置《すておき》は恐入りますねえ、どう云う事になります」
 蟠「貴公が医者の積《つも》りで往ってくれんではいかぬ」
 忠「何処《どこ》へ」
 蟠「浪人者が眼が悪い、三年越しの眼病で居《お》るから、秋田穗庵が薬をやって居《お》る、そこへ貴公が往って向うが内職に筆耕を書くから、親から譲られた書物を版本にしたいから筆耕を書いてくれというと、向《むこう》は目が悪いから、折角の頼みだが目が悪いから書けないという、私《わし》は医者だ、眼病には家法で妙な薬を知って居《お》るが、何処の医者に掛って居《お》るかというと向うで秋田穗庵に掛ったという時|蔑《けな》すのだ、彼《あれ》は藪《やぶ》医者でいかぬ、私《わし》の家伝に妙な薬があるからやる、礼はいらぬたゞやると云う、たゞは貰えぬと云うから、そんなら癒《なお》ったら書物を書いて貰いたいという、そこで目を治させるという情《じょう》の処でやるのだ」
 忠「成程、恐入りましたねえ、仇《あだ》のある者に仇を復《か》えさず、仇を恩で復えして置いて、娘を己《おれ》の処へ嫁にくれぬかというと、向うで感心して、手付かず貰えますな」
 蟠「そうではない、向うでも中々学問のある奴だから答が出来んではならぬ、それは穗庵に聞いて薬もあるが、早稲田《わせだ》に鴨川壽仙《かもがわじゅせん》という針医がある、其の医者が一本の針を眼の側《わき》へ打つと、其処《そこ》から膿《のう》が出て直ぐ治る、丁度今日|行《ゆ》けば施しにたゞ打ってくれる、目は一時《いっとき》を争うから直ぐ行くが宜しい、私《わし》が手紙を書いても宜しいが、施しだからお出《いで》なさいというと、勧めによってひょこ/\出て行くだろう、処が鴨川壽仙は浅草山の宿《しゅく》へ越したから、それを知らずに早稲田まで行くと空しくなる、これから貴公が往って勧めて早稲田まで行くと夜遅くなり、お茶の水辺りへ来ると、九ツになる、其処《そこ》へ私が待合《まちあわ》せて真二《まっぷた》つにするという趣向はどうだ」
 忠「是は御免を蒙《こうむ》りましょう、先生は御遺恨があるか知れませんが、私《わたくし》は遺恨はございませんから、一刀の下《もと》に斬って捨るのを心得て呼出すのは難儀でございます」
 蟠「貴公が殺すのではない、私《わし》が殺すのだ」
 忠「殺すのではございませんが、蛇が出た時あゝ蛇が出たと云うと、殺した奴より教えた奴に取付くと云いますから止しましょう」
 蟠「そんなら廃《よ》せ、首尾|好《よ》く行《ゆ》けば、先達《せんだっ》て貴公が欲しいと云った脊割羽織《せわりばおり》と金を廿両やる積りだ」
 忠「誠に有難うございます、頂戴致したいは山々でございますが、これはなんですなア」
 蟠「貴公だって真面目な人間ではない、先達て友之助を賭碁で欺いたときも同意して、貴公も礼を受けていようではないか、蟠作から礼を受ければ悪人の同類だ、悪事が露顕すれば素首《すこうべ》のない人間だ、毒を喰わば皿までというから貴公も飽《あく》までやりな」
 忠「やりましょう、やりましょうが、医者のことを心得ませんから」
 蟠「それは教われば宜しい」
 と話をしている処へ穗庵がつか/\と這入って参りました。
 穗「へー今日《こんにち》は」
 蟠「さア此方《こっち》へ」
 穗「先刻お人でございましたが、余儀ない用事で遅くなりました…いやこれは阿部|氏《うじ》」
 忠「これは久し振りでお目に懸りました、一昨日から飲過ぎて暑さに中《あた》り、寝ていて、今日《こんにち》漸《ようや》く出て参りました、今先生に聞いたが医者のことを聞かせてくれなくってはいかぬ」
 穗「阿部氏は得心しましたか」
 蟠「得心したから教えてくれぬではいかぬ」
 穗「宜しい、眼病には内障眼と外障眼と二つあるが、小野庄左衞門のは外障眼でない、内障眼という治《じ》し難《がた》い眼病だ、僕も再度薬を盛りましたが治りません、真珠《しんじゅ》麝香《じゃこう》辰砂《しんしゃ》竜脳《りゅうのう》を蜂蜜《はちみつ》に練って付ければ宜しいが、それは金が掛るから、娘を先生の妾にくれゝば金を出してやると云うて掛合った処が、頑固な爺《じゞい》で、馬鹿|呼《よば》わりをして先生もお腹立であったが、今まで耐《こら》えて居《お》った、貴公が行《ゆ》けば阿部|忠庵《ちゅうあん》とでも云えば宜しい、向うは学者で医学の書物を読んで居《お》るから答えが出来ぬでは困るからね」
 忠「此方《こっち》は些《ちっ》とも知らぬから書いて呉れぬといけない」
 穗「宜しい、書きましょう」
 硯箱を取って細かに書きまして、
 穗「さアこれで宜しい、此の薬を服《の》めば必ず全快致す、服薬の法もあります」
 忠「医者の字は読めぬね、何《なん》ですえ、明《あきら》かの樓《たかどの》の英《はなぶさ》の」
 穗「そんな読みようはない、明《みん》の樓英《ろうえい》の著《あら》わした医学綱目《いがくこうもく》という書物がある、その中《うち》の蘆膾丸《ろかいがん》というのが宜しい」
 忠「成程、蘆膾丸か、幾つも名がありますねえ」
 穗「それは薬の名だ」
 忠「成程、棒が二本書いてある」
 穗「蘆膾丸だから棒が二本あるのだ」
 忠「成程、それからウシのキモ」
 穗「ウシのキモでは素人臭い、牛胆《ぎゅうたん》」
 忠「それからカシワゴ」
 穗「カシワゴではない柏子仁《はくしじん》」
 忠「えー、アマクサ」
 穗「アマクサではない、甘草《かんぞう》」
 忠「成程甘草」
 穗「羚羊角《れいようかく》、人参《にんじん》、細辛《さいしん》と此の七|味《み》を丸薬にして、これを茶で服《の》ませるのだ」
 忠「成程」
 穗「鴨川壽仙は針の名人だ、昼間|傘《からかさ》を差し掛けて其の下へ寝かして置いて、白目の処へ針を打つと、其の日に全快する」
 忠「えらいものだね、真珠に麝香に真砂《しんしゃ》に竜脳の四|味《み》を細末《さいまつ》にして、これを蜂蜜で練って付ける時は眼病全快する、成程、宜しい、これを持って行《ゆ》きましょう」
 穗「それを出して読むようではいかぬから暗誦して」
 忠「宜しい、先生恐入りましたが羽織がこれではいけませんから、無地のお羽織を願います」
 蟠「これをやろう」
 とこれから無地の羽織を着て阿部忠五郎が小野庄左衞門の宅へ参りました。庄左衞門の宅では、神ならぬ身のそんな事とは知りませんから、娘が親父《おやじ》の側に居りまして内職を致して居ります。
 忠「御免下さい」
 ま「何方《どちら》から入《いら》っしゃいました」
 忠「小野庄左衞門殿のお宅は此方《こちら》かな」
 ま「お父様《とっさま》、何方《どなた》か入っしゃいました」
 庄「此方へお通り下さい……初めまして手前小野庄左衞門と申す武骨者、えー何方様《どなたさま》でございますか」
 忠「手前は医者で阿部忠いえなに忠庵という者で、親父から譲られた書物がござるが、虫が付きますから版本にしたいと思いまして、就《つい》ては貴方は筆耕の御名人と承わり筆耕をして戴きたいと思います」
 庄「それは折角のお頼みではございますが、手前眼病でな、誠にお気の毒ではございますが」
 忠「それはいけません、誰か医者に診て貰いましたか」
 庄「はい、新井町《あらいまち》の秋田穗庵という医者に診て貰いました」
 忠「彼《あれ》はいけません、あんな医者に掛ると目をだいなしにして仕舞います」
 庄「私《わたくし》の目は外障眼でありませんで内障眼でございます」
 忠「治らぬと申しましたか」
 庄「種々《いろ/\》やりましたが全快|覚束《おぼつか》ないということでございます」
 忠「それでは私《わたくし》の家法の薬がありますから唯《たゞ》差上げましょう、其の代りに全快の上は筆耕を書いて戴きたい」
 庄「有難いことで、唯薬を戴けば全快次第書いて上げるのは無論でございますが、どうか頂戴したいものでございます」
 忠「これは家伝の薬で功能は立処《たちどころ》にある」
 庄「どういう薬法でございますか」
 忠「薬法、なんでございますな…」
 どうも教わりたてゞございますから能く分りません、向うは盲人《めくら》だから書いた物を出して見ても宜しいが、娘が居りますから、
 忠「姐《ねえ》さん、お気の毒でございますが水が飲みとうございますから、冷たいお冷水《ひや》を一杯戴きたいもので」
 庄「これ水を上げるが宜しい」
 娘が水を汲みに出て行《ゆ》きましたから、扇へ書いたのをそっと出して見まして、
 忠「家法の薬は蘆膾丸と申しまして」
 庄「ハー蘆膾丸と申しますか、どういうお書物に在《あ》りましたか」
 忠「其の書物は明《あきら》かの樓《たかどの》いえなに明《みん》の樓英の著わした医学綱目という書物がある」
 庄「医学綱目、成程一二度見たことがありました、はゝアどういうお薬でございますか」
 忠「それはその七|味《み》あります、これは蘆膾丸というのです」
 庄
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