たことはない、どうも強いねえ」
 亥「私《わっち》も旦那のような強い人に出会ったことはねえ、初めてだ」
 文「見張所の鉄砲を持ち出したのはえらい」
 亥「どうも面目もございません、旦那は喧嘩の相手を憎いとも思わず、私《わっち》の爺《ちゃん》の所へ金を十両持って来てくれたそうで、随分牢へは差入物をよこす人もあるが、爺の所へ見舞《みめえ》に来て下すったはお前《めえ》さんばかりで、私《わっち》のような乱暴な人間でも恩を忘れたことはねえから、旦那え、これから出入《でいり》の左官と思って末長く目をかけておくんなせえ、お前《めえ》さんに金を貰ったから有難いのじゃアねえ、お前《めえ》さんの志に感じたからどうか末長く願います」
 と云うので、文治郎が盃を取って亥太郎に献《さ》して、主《しゅう》家来同様の固めの盃を致しましたが、人は助けておきたいもので、後に此の亥太郎が文治の見替りに立ってお奉行と論をすると云うお話でありますが、次回《つぎ》にたっぷり演《の》べましょう。

  八

 業平文治が安永の頃|小笠原島《おがさわらじま》へ漂流致します其の訳は、文治が人殺しの科《とが》で斬罪《ざんざい》になりまする処を、松平右京《まつだいらうきょう》様が御老中《ごろうじゅう》の時分、其の御家来|藤原喜代之助《ふじわらきよのすけ》と云う者を文治が助けました処から、其の藤原に助けられまするので、実に情《なさけ》は人の為ならでと云う通り、人に情はかけたいものでございます。男達《おとこだて》などは智慧もあり又|身代《しんだい》も少しは好《よ》くなければなりませんし無論弱くては出来ませぬが、文治の住居《すまい》は本所業平村の只今植木屋の居ります所であったと云うことでございます。文治の居ります裏に四五軒の長屋があります、此処《こゝ》へ越《こし》て来ましたのは前《ぜん》申上げました右京様の御家来藤原喜代之助で、若気《わかげ》の至りに品川のあけびしのおあさと云う女郎に溺《はま》り、御主人のお手許金《てもときん》を遣《つか》い込み、屋敷を放逐《ほうちく》致され、浪人して暫《しばら》く六間堀《ろっけんぼり》辺に居りました其の中《うち》は、蓄えもあったから何《ど》うやら其の日を送って居りましたが、行《ゆ》き詰って文治の裏長屋へ引越《ひきこ》し、毎日弁当をさげては浅草の田原町《たわらまち》へ内職に参ります。留守は七十六歳になる喜代之助の老母とおあさと云う別嬪《べっぴん》、年は廿六ですが一寸《ちょっと》見ると廿二三としか見えない、うすでの質《たち》で色が白く、笑うと靨《えくぼ》がいります。此の靨と云うものは愛敬のあるもので私《わたくし》などもやって見たいと思って時々やって見ましたが、顔が皺《しわ》くちゃだらけになります。おあさは小股《こまた》の切り上った、お尻《しり》の小さい、横骨の引込《ひっこ》んだ上等物で愛くるしいことは、赤児《あかご》も馴染むようですが、腹の中は良くない女でございますけれど、器量のよいのに人が迷います。所で森松が岡惚《おかぼれ》をしましてちょく/\家《うち》の前を通りまして、
 森「えー今日《こんち》は」
 などと辞《ことば》をかけたり水を汲んでやったり致しますが、妙なもので若い女が手桶《ておけ》を持って行《ゆ》くと「姉さん汲んで上げましょう」と云いますが、これがお婆《ばあ》さんが行って「一つ汲んでおくんなさい」と云うと、井戸を覗いて見て「好《い》い塩梅《あんばい》に水があればいゝが」と云うくらいなことで。森松がちょく/\水を汲んでくれたり、買物や何かして遣《や》りますから、おあさは手拭の一筋もやったりなどして居りますと、或日のことおあさが云うに、
 あさ「お母《っか》さんが煩っていてじゞ穢《むさ》くって仕様がないよ、何かする側で御膳を喫《た》べるのは厭《いや》だから、森さんお前さんの知っている所でお飯《まんま》を喫べよう」
 と云われた時は森松は嬉しくって、
 森「参りやすとも、角の立花屋へ往って待っておいでなせえ」
 と約束して、これから森松は借物の羽織で小瀟洒《こざっぱり》した姿《なり》をして出掛けて往《ゆ》き、立花屋の門口から、
 森「親方|今日《こんちや》あ」
 立[#「立」は底本では「五」と誤記]「いや森さんかえ」
 森「二階に(こゆびを見せる)こりゃアいやアしませんか」
 立「なんだい小指を出して、お前さんのお連《つれ》かえ、先刻《さっき》から来ているよ」
 と云われ、森松はニコ/\しながらとん/\/\と二階へ上《あが》ると、種々《いろ/\》な酒肴《さけさかな》を取っておあさが待って居りまして、
 あ「ちょいと遅いことねえ、お前《ま》はんが来ないから私は極りが悪くって仕様がないよ」
 森「宅《うち》を胡麻化して来ようと思ってつい遅くなりやした」
 あ「あら髪なんぞを結って来るんだものを」
 森「なアに家《うち》を出る時髪を結って来ると云って出ねえと極りが悪いから」
 あ「気にも入るまいが色か何かの積りで緩《ゆっ》くり飲んでおくれな」
 森「大層お肴がありやすねえ」
 あ「さアお喫《あが》りよ」
 森「戴きやす、御新造《ごしんぞ》のお酌で酒を飲むなんて勿体《もってえ》ねえことです、えーどうも旨いねえ」
 あ「ちょいと種々《いろ/\》森さんのお世話になり、買物をするにも勝手が知れないから聞くと、私が買って上げようと云ってお世話になるから、何か買って上げようと思ったが、宅《うち》へ知れると年寄に訝《おか》しく思われるから思うようにいけないが、これは少しだがお前さんに上げるから」
 森「こんな事をなすっちゃアいけませんよ」
 あ「ちょいと私が、お前さんに袷《あわせ》の表を上げたいと思って持って来たよ、じゃがらっぽいがねえ銘仙《めいせん》だよ、ぼつ/\して穢《きたな》らしいけれども着ておくれでないか」
 森「戴く物は夏もお小袖と云うから結構でござえやす」
 あ「斯うしよう、お前の着物の寸法を書いておよこし、良人《うち》の留守の時縫って上げよう」
 森「こりゃア有難い、これはどうもお前さんのような御気性な人はねえや、ちょくで人を逸《そら》さないようにして…あなたの所《とこ》の旦那はお堅うござえやすねえ」
 あ「屋敷者だもの、だから不意気《ぶいき》だよ」
 森「朝ね、黒い羽織を着て出る時、何時《いつ》も路地で逢うから、旦那お早うと云うと、好《い》い天気でござるなんかんて云うが、あんな堅い方はありません、一杯戴きやしょう、好い酒だ、私《わっち》アね何時でも宅《うち》を出る時、極りが悪いからちょっと往って来《き》やすよと云うと、旦那ア知ってるから森やア酔わねえように飲めよと云われるが、宅じゃア気が詰って飲めねえし、どうも酔えねえようには出来ねえが、宅の旦那は妙ですねえ…どうも有難うござえやす」
 あ「私《わたし》アあねえ気が合わないから宅《うち》の藤原と別れ話にして、独り暮しになるからちょく/\遊びに来ておくれよ」
 森「へー往《ゆ》くくらいじゃア有りやせん、へえ別れるねえ」
 あ「別れると宅《うち》のも屋敷へ帰るし、私もいゝから別れようと思うのさ」
 森「成程気が合わねえ、へえ成程、へえお前さんが独りになればポカ/\遊びに往《ゆ》きますよ」
 あ「こんな事を云って、私が一生懸命の事を云うが、お前|叶《かな》えておくれか」
 森「何《なん》の事ですか、あなたの云う事なら聴きますともさ」
 あ「女の口からこんな事を云って聴かないと恥をかくからさ」
 森「聴きますよ、えゝ聴きますとも」
 あ「蔑《さげす》んじゃアいけないよ」
 森「蔑すむ処《どころ》か上げ濁《にご》しますよ」
 あ「本当に無理な事を云って蔑んではいけないよ」
 森「それとも…私《わっち》のような者に惚れる訳はないもの」
 あ「あれさお前じゃアないよ」
 森「私《わっち》じゃアねえ、然《そ》うだろうと思った」
 あ「お前の処《とこ》の文治さんにさ」
 森「こりゃア呆《あき》れたねえ、こりゃア惚れらア、男でも惚れやすねえ」
 あ「男振《おとこぶり》ばかりじゃアないよ、世間の様子を聞くと、お前の所の旦那は下《しも》の者へ目をかけ、親に孝行を尽すと云うことだから私アつく/″\惚れたよ、何《ど》うせ届かないが森さん、私が一人で暮すようになれば旦那を連れて来ておくれ、お酒の一杯も上げたいから」
 森「こりゃア惚れますねえ、宅《うち》の旦那には女ばかりじゃアねえ男が惚れやすが、堅いからねえ、何《ど》うとかして連れて往《ゆ》きましょう、私《わっち》が旦那を連れて新道《しんみち》を通る時、お前さんが森さんお寄んないと云うと、私《わっち》が旦那こゝは先《せん》に宅《うち》の裏にいた藤原の御新造《ごしんぞ》の家《うち》だから鳥渡《ちょっと》寄りましょうと云うので連れ込むから」
 あ「私ア素人っぽい事をするようだが、手紙を一本書いておいたから、旦那の機嫌の好《い》い時届けておくれ」
 森「大形《おおぎょう》になりやしたなア、こりゃアお前さんが書いたのかね」
 あ「艶書《いろぶみ》が人に頼まれるものかね」
 森「それじゃア機嫌の好い時に届けやしょう」
 と云って互いに別れて宅《うち》へ帰って、森松は文治に云おうかと思ったが、正しい人ゆえ、家《うち》にいても品格を正しくしているから口をきく事が出来ません。或日の事母が留守で、文治が縁側へ出て庭を眺《なが》めて居りますから、
 森「旦那え」
 文「何《なん》だの」
 森「今日《こんち》は誠に結構なお天気で」
 文「何だ家《うち》の内で常にない更《あらた》まってそんな事を云うものがあるものか」
 森「何時《いつ》でも御隠居さんが、文治に好《い》い女房《にょうぼ》を持たせて初孫《ういまご》の顔を見てえなんて云うが、あんたは御新造をお持ちなせえな」
 文「御新造を持てと云っても己《おれ》のような者には女房《にょうぼ》になってくれ人《て》がないや」
 森「えゝ、旦那が道楽の店でも出せば娘っ子がぶつかって来ますが、旦那は未《いま》だに女の味を知らねえのだから仕方がねえや、何《どん》なのが宜《よ》うごぜえやすえ、長いのが宜うがすかえ、丸いのが宜うがすかえ」
 文「それは長いのが宜《い》いと思っても丸いのを女房《にょうぼ》にするか皆縁ずくだなア」
 森「裏へ越して来た藤原の御新造は何《ど》うです」
 文「左様々々、彼《あれ》は美人だの」
 森「なアに、そうじゃアありやせん、彼は何《ど》うです」
 文「大層世辞がいゝの」
 森「彼は何うです、彼になせえな」
 文「彼になさいと云っても彼は藤原の女房《にょうぼう》だ」
 森「女房じゃアありません、来月別れ話になって、これから孀婦《やもめ》暮しにでもなったら、旦那を連れて来てくれってんです」
 文「嘘をいうな」
 森「嘘じゃアねえ私《わっち》を立花屋へ連れて往って御馳走をして、金を二|分《ぶ》くれて、旦那を斯《こ》うと云うのです」
 文「嘘を吐《つ》け」
 森「嘘じゃアありやせん、この文《ふみ》を出して、何《ど》うか返事を下さいってんでさア、返事が面倒なら発句《ほっく》とか何《な》んとか云うものでもおやんなせえ」
 文「これは彼《あ》の女の自筆か」
 森「痔疾《じしつ》なんざアありやせんや、瘡毒《とや》に就《つい》て仕舞っているから」
 文「そうじゃアない彼の女の書いたのか」
 森「先《せん》にゃア人に頼んだろうが、今じゃア人には頼めやせんや」
 文「何《なん》だってこれを持って来た」
 森「何《なん》だってって旦那に返事を書いて貰ってくれと云うから」
 文「痴漢《たわけ》め」
 森「あゝ痛《いて》い、何をするんで」
 文「苟《かりそめ》にも主《ぬし》ある人の妻《もの》から艶書を持って来て返事をやるような文治と心得て居《お》るか、何《なん》の為に文治の所へ来て居る、汝《わりゃ》ア畳の上じゃア死《しね》ねえから、これから真人間になって曲った心を直すからと云うので、己の所へ来ているのじゃアないか、人の女房から艶書を貰うような不義の文治
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