、九尺四枚の襖を開け、小窓の障子を開け、表の障子も残らず開け払って元の席へ坐り、
文「お村もう己の所へ来てくれるな、能く考えて見ろ、去年の暮友之助と牛屋の雁木から心中する所を計らずも助けて、両人《ふたり》の主人と親に掛合い、世帯《しょたい》を持たせ、己が媒妁《なこうど》になって夫婦にした処、友之助も手前も働き、店が繁昌すると云うから目出たいと思い、蔭ながら悦んでいた処、母が留守になり、毎日旨い物を持って来てくれるから、友之助の云い付けもあろうが斯うやって一人でいる文治郎の所へ若い女が毎日来ては、世間に悪評を立てられるかも知れんし、友之助にも済まんと云うのを肯《き》かずに毎日来るが、今手前の云った言葉は何《ど》うしたのだ、命を助けられた文治郎の云うことだから否《いや》と云うことが出来ず、世辞に云ったか知らんが、仮令《たとえ》世辞にもそれは宜しくない、手前がそう云う心得違いでは友之助に言訳が立つまい、今日のは手前が世辞で云ったのであろうけれども宜しくないことだ、此の程も噂に聞けば、友之助の留守には芸者や幇間《たいこもち》が遊びに来るのをよいことゝし、酒を飲んで三味線《さみせん》などを弾いて遊んでいると云うことだが、それは廃《よ》せよ、商人《あきんど》の女房になって其様《そん》なことをしては宜しくない、今までの芸者屋とは違うぞ、世間の評も宜《よろし》くないから、友之助の留守には何《ど》んな男が来ても留守だから上げることは出来んと云って速《すみやか》に帰せよ、必ず浮いた心を出すな、手前は今のような世辞を云うのが持前であるが、若し誰か手前に惚れて今のように凭《もた》れ掛り、手前のような挨拶《あいさつ》をすれば、それは男だから何《ど》んな間違いが出来るか知れん、其の時は友之助に対して操《みさお》を破らなければなるまい、己が冗談を云ったら己の手を払い除《の》け、旦那貴方は宜《よ》くないお方だ、私共《わたくしども》両人《ふたり》を助けて夫婦にして下すった恩人でありながら、苟《かりそ》めにも宜くない、此の後《のち》は貴方の所へは参りませんときっぱり云ってくれるくらいな心があれば、己も嬉しく思う、今日の処は冗談にするが以後はならんぞ、さ一杯飲んで帰えれ/\」
と云われてお村は間《ま》が悪いから真赤になって、猫が紙袋《かんぶくろ》を被《かぶ》ったように逡巡《あとびさり》にして、こそ/\と台所から抜出して仕舞いましたが、さアもう文治郎の所へ行《ゆ》くことは出来ません。友之助はそんなことは少しも知りませんから、
友「お村、此の頃は旦那の所へ往《ゆ》かないが何《ど》うしたのだえ」
村「旦那は機嫌かいで、機嫌のいゝ時と悪い時とは大変違いますよ、そうして幾ら堅いと云っても若いから、時々厭なことを云うから余《あんま》り近く往《ゆ》かない方がいゝよ、何処《どこ》か離れた所へ越そうじゃないか」
と云われ、友之助は素《もと》より気のいゝ人だから、
友「そうか、そんなことがあるのか、それなら他へ越そう」
と女房の云いなり次第になり、遂に文治郎に無沙汰《むさた》で銀座三丁目へ引越しましたが、後に文治郎が無名国へ漂流するのもお村の悪い為でありますから、女と云う者は恐るべきものでございます。さてお話二つに岐《わか》れまして、彼《か》の喧嘩の裁判は亥太郎が入牢《じゅろう》を仰せ付けられ、翌年の二月二十六日に出牢致しましたが、別に科《とが》はないから牢舎《ろうや》の表門で一百の重打《おもたゝ》きと云うので、莚《むしろ》を敷き、腹這《はらんばい》に寝かして箒尻《ほうきじり》で脊中を打《ぶ》つのです。其の打人《うちて》は打《たゝ》き役|小市《こいち》と云う人が上手です。此の人の打《う》つのは痛くって身体に障らんように打ちますが、刺青《ほりもの》のある者は何《ど》うしても強そうに見えるから苛《ひど》く打ちまして、弱そうな者は柔かに打《ぶ》ちます。亥太郎は少しも恐れないで「早く打《ぶ》ってお呉《く》んねえ」などと云い、脊中に猪の刺青が刺《ほ》ってあり、悪々《にく/\》しいからぴしーり/\と打《う》ちます。大概《たいがい》の者なら一百打つとうーんと云って死んで仕舞うから五十打つと気付けを飲まして、又|後《あと》を五十打つが、亥太郎は少しも痛がらんから、
獄吏「気付けを戴くか」
亥「気付なんざア入らねえ、さっさとやって仕舞ってくんねえ」
と云うから尚お強く打つが、少しも疲《よわ》りませんで、打って仕舞うとずーっと立って衣服《きもの》をぽん/\とはたいて、
亥「小市さん誠にお蔭様で肩の凝《こり》が癒《なお》りました」
と云ったが、脊中の刺青が腫《は》れまして猪《しゝ》が滅茶《めっちゃ》になりましたから、直ぐ帰りに刺青師《ほりものし》へ寄って熊に刺《ほり》かえて貰い、これから猪《い》の熊《くま》の亥太郎と云われました。其の後《のち》小市さんの所へ酒を二升持って礼に参り「あなたのお蔭で脊中の刺青が熊になった」と云われた時は流石《さすが》の小市も驚いたと云う程強い男ですから、牢から出ると、喧嘩の相手の文治郎のどてっ腹を抉《えぐ》らなければならんと云うので胴金《どうがね》造りの脇差を差して直ぐに往《ゆ》こうと思ったが、そんな乱暴の男でも親の事が気に掛ると見えまして、家《うち》へ帰って見ると、親父はすや/\と能く寝て居りますから、
亥「爺《ちゃん》能く寝ているな、勘忍してくんねえ、己《おら》ア復《ま》た牢へ往《ゆ》くかも知れねえ、業平橋の文治を殺して亥太郎の面《つら》を磨くから、己《おれ》が牢へ往って不自由だろうが勘忍して呉んねえ」
と云われ長藏は目を覚し、
長「手前《てめえ》は牢から出て来ても家《うち》に一日も落付いていず、やれ相談だの、やれ何《なん》だのと云ってひょこ/\出歩きやアがって、何《なん》だ権幕《けんまく》を変えて脇差なんどを提《さ》げて、また喧嘩に往《ゆ》くのだろうが、喧嘩に往くと今度は助かりゃアしねえぞ、喧嘩に往くのなら己《おら》ア見るのが辛《つれ》えから、手前《てめえ》今度出たら再び生きて帰《けえ》るな」
亥「爺《ちゃん》、己《おら》ア了簡があって業平橋の文治郎のどてっ腹を抉って腹癒《はらい》せをして来るのだ」
長「何だ、腹が痛《いて》えと」
亥「そうじゃアねえ、業平橋の文治郎を打《たゝ》っ斬って仕舞うのだ」
長「此の野郎とんでもねえ奴だ、業平橋の文治郎様の所へは己《おれ》がやらねえ、死んでもやらねえ、業平文治郎さまと云うのは見附|前《めえ》の喧嘩の相手だろう、其の方《かた》を斬りに往《ゆ》くんなら己を殺して往け」
亥「なんだって文治郎を殺すのにお前《めえ》を殺して往くのだ」
長「何もあるものか、手前《てめえ》は知るめえが、去年の暮の廿六日に手前《てめえ》が牢へ往って其の留守に、忘れもしねえ廿八日、業平橋の文治郎様が来て金を十両見舞に持って来てくれた、手前《てめえ》が牢へ往って己が煩っていて気の毒だ、勘忍してくれと云って十両の金をくれた、其の金があったればこそ己が今まで斯うやって露命を繋《つな》いで来た、其の大恩ある文治郎様に刃物を向けて済もうと思うか、さア往《ゆ》くなら己の首を斬って往け、殺して往け、恩を仇《あだ》で返《けえ》すのは済まねえから殺して往け、さア殺せ」
亥「待ちねえ爺《ちゃん》、何か全く文治郎さんがお前《めえ》の所へ金を持って来てくれたに違《ちげ》えねえか、爺」
長「暮になって何《ど》うも仕様のねえ所へ十両の金をくれて、それで己が今まで食っていたのだよ」
亥「そうとは知らずにどてっ腹をえぐろうと思っていた」
長「なに小塚原《こづかっぱら》へ往くと、己やらねえ」
亥「そうじゃアねえ、己が知らねえからよ」
長「なに不知火関《しらぬいぜき》を頼むと」
亥「全く金を十両くれたかよ」
長「そうよ」
亥「あゝ後悔した」
長「なにそんな事を云っても己《おれ》アやらねえ」
亥「本所から度々名の知れねえ差入物が来ると云ったが、それじゃア文治郎が送ってくれたか、又己の留守に金を十両持って見舞《みめえ》に来てくれたとは己は済まねえ」
長「何をぐず/\云っている、己出さねえ、やらねえ」
亥「爺《ちゃん》、知らねえと云って済まねえなア」
長「うん済まねえ」
亥「知らねえからよ」
長「牢から出たら手前《てめえ》を連れて詫に往《ゆ》こうと思っていた」
亥「直ぐに詫に往くよ」
長「嘘をつけ、そんなことを云ってまた喧嘩に往くんだろう、己やらねえ」
亥「大丈夫だよ、案じねえように脇差をお前《めえ》に預けるから」
長「何処《どこ》でこんな物を買って来《き》やがった、詫に往かなければ己を殺せ」
亥「何か土産を持って往きてえが何がいゝだろう、本所は酒がよくねえから鎌倉河岸《かまくらがし》の豐島屋《としまや》で酒を半駄《かたうま》買って往こう」
長「なんだ、年増と酒を飲みに往く、そんなことはしねえでもいゝ」
亥「そうじゃアねえ、済まねえから詫に行《ゆ》くのだ、安心して寝ていねえ」
長「己も往きてえが腰が立たねえからとそう云ってくれ」
亥「それじゃア往って来るよ」
と正直の男だから鎌倉|川岸《がし》の豐島屋へ往って銘酒を一|樽《たる》買って、力があるから人に持たせずに自分で担《かつ》いで本所業平橋の文治の宅へ参り、玄関口から、
亥「御免なせえ/\」
森「おゝ、こりゃアお出《いで》なせえ」
亥「いやなんとか云ったっけ、森松さんか、誠に面目ねえ」
森「己の所の旦那が阿兄《あにき》のことを彼《あ》ア云う気性だから大丈夫だと安心していたがねえ、まア出牢で目出度《めでてえ》や」
亥「去年の暮お前《めえ》を手込《てごめ》にして済まなかった、面目次第もねえ、勘忍してくんねえ、己《おら》ア知らねえで旦那のどてっ腹をえぐりに来《き》ようと思ったら、己の所《とこ》の爺《とっ》さんの所《ところ》へ旦那が見舞《みめえ》をくれたと云うことを聞いて面目次第もねえ、旦那にそう云ってくんねえ、土産を持って来るのだが、本所には碌《ろく》な酒はあるめえと思って」
森「酷《ひど》い事を云うぜ」
亥「豐島屋の酒を持って来た、旦那に一|杯《ぺい》上げて盃を貰《もれ》えてえってそう云ってくんねえ」
森「少し待っていねえ、お母様《ふくろさん》に喧嘩の事なんぞを云うと善《よ》くねえから、旦那に内証《ないしょ》で話して来るから」
と森松は奥へ往きますと、文治は母親に孝行を尽して居りますから、森松はそっと、
森「旦那え/\」
文「何《なん》だ」
森「見附|前《めえ》の鉄砲が来ましたよ」
文「亥太郎が来たか」
森「来ました、驚きましたねえ、酒を一樽|荷《かつ》いで来て旦那に上げてくれって来ました」
文「逢いたいが、お母様《っかさん》の前で彼《あん》な荒々しい奴が話をしては、お驚きなさるといけないから、角《かど》の立花屋《たちばなや》へ連《つれ》って往って、酒肴《さけさかな》を出して待遇《もてな》してくれ、己が後《あと》からお暇を戴いて往《ゆ》くから」
森「へー」
と云って森松は亥太郎を連れて立花屋へ参り、酒肴を誂《あつら》え待っている所へ文治郎が参りまして、
文「さア此方《こちら》へ/\」
亥「誠にどうも旦那面目|次第《しでえ》もございません、去年の暮は喰《くれ》え酔って夢中になったものだから、お前《めえ》さんに理不尽なことを云いかけて嘸《さぞ》お腹立でござえやしょう、御勘弁なすって下せえ」
文「どう致して、先《ま》ず目出度《めでたく》御出牢で御祝《ごしゅく》し申す、どうしても気性だけあって達者でお目出たい」
亥「へーどうも」
文「先刻は又お土産を有難うございます」
亥「いや最《も》う何《ど》うも、誠につまらねえ品でござえやすが、本所にはいゝ酒がねえと思って豐島屋のを一本持って来て、旦那に詫をして盃を貰《もれ》えてえと思って来ました」
文「私《わし》も衆人《しゅうじん》と附合うが、お前のような強い人に出会っ
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