…今夜はどうしても私《わし》は行《ゆ》かなければならぬ、お母様に何卒《どうぞ》知れぬようにして下さい、決して心配するな、直《じ》き往って来るから」
町「はい、お止め申しませぬ……御機嫌宜しゅうお帰り遊ばして」
と縁側まで送り出し、御機嫌宜しゅうと袖に縋《すが》って文治郎の顔を見上げる。文治郎は情深い者でございますから、あゝ可愛そうに、己は帰れるやら帰れぬやら知れぬに、気の毒なことゝ思うが、仕方がないから袖を払って三尺の開きをあけて、庭から出まして、これから北割下水へ掛って来ますると、夜《よ》は森々《しん/\》と致して鼻を抓《つま》まれるのも知れません。大伴蟠龍軒の門前まで来ると、締りは厳重で中へ這入る事は出来ません、文治郎は細竹を以《もっ》てズーッと突きさえすれば、ヒラリと高い屋根へ飛上《とびあが》る妙術のある人でございますから、何《なん》ぞ竹はないかと四辺《あたり》を見ると、蚊を取ります袋の付きました竹の棒がある「本所に蚊が無くなれば師走《しわす》かな」と云う川柳の通り、長柄《ながえ》に袋を付けて蚊を取りますが、仲間衆《ちゅうげんしゅう》が忘れでもしたか、そこに置いてありましたか
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