《ひっくりかえ》ったのだろう」
番「誰方《どなた》様ですな」
と云いながら頭からザブリッと水を打掛《ぶっか》けましたから、
九「あゝ/\有難うございます、余り長く入って居りましたものですから湯気に上《あが》りました」
番「何《ど》う云う御様子でございます、大丈夫ですか」
九「お前さんは湯屋《ゆうや》の番頭さんなら内証《ないしょ》で手拭を持って来ておくんなさい、お願いです」
番「へー、それではお前さんは手拭がありませんか」
と番頭はおかしさを堪《こら》えながら、
番「それでは今|窃《そっ》と持って来て上げますからお待ちなさいまし」
と云うのをお浪が見てツカ/\ッと側へ来て、
浪「おゝ此奴《こいつ》だ、さア此方《こっち》へ来ねえ」
と云いながらズル/\ッと引摺って来て箱の前へ叩きつけました。
九「あゝ申し誠に相済みません、どうぞ御勘弁を願います」
浪「御勘弁じゃアないよ、呆れかえって物が云えないよ、斯様《こん》なお多福でも亭主のあるものに彼《あ》んな馬鹿な事をされちゃア亭主に済まねえ、お前《めえ》の家《うち》へ行くから一緒に行きねえ」
九「実はあんたによう似たお方があるので、そのお方だと思うて、実に申そうようない事をいたし、申し訳がありまへん、どうぞ御勘弁を」
浪「なんだえ、人違いだえ、巫山戯《ふざけ》た事を云っちゃアいけねえぜ、毎日《めえにち》人違《ひとちげ》えをする奴があるかえ、さア主人のある奴なら主人に掛合うし、主人がなけりゃアお前《めえ》だって親か兄弟があるだろう、一緒に行きなよ」
と云いながら平ッ手でピシャーリ/\と打《ぶ》ちます。寒い時に板の間へ長く坐って慄《ふる》えて居る処を打たれますから、身体へ手の跡が真赤につきます。表へは黒山のように人が立ちまして、
男「なんです/\」
乙「なんだか知りませんが苛《ひど》い女ですなア」
丙「なんでも盗賊《どろぼう》でございましょう、残らず取られて裸体《はだか》になったようですなア」
甲「何を取られました」
丙「何《な》んでも初めは手拭を取られたんだそうですが、仕舞には残らず取られたと見えて素裸《すっぱだか》になって、男の方で恐入《おそれい》ってヒイ/\云って居ますなア」
甲「へーそれでは取った女が取られた人を打《ぶ》って居るのですか」
丙「そうですなア、成程それにしちゃア妙ですなア、何《なん》でも評判の悪人でございましょう、女でこそあれズウ/\しい奴でしょう」
丁「なアに、そうじゃアありません、全くはお湯の中へ灰墨《へいずみ》を流したのだそうですが、大方恋の遺恨でございましょう、灰墨を手拭へくるんで湯の中へ流して、手拭がないから彼奴《あいつ》に違いないと云っているんでしょう」
戊「なアに、そうじゃありません、小児《あかんぼ》の屎《うんこ》を流したんだって」
乙「へーそうですか」
癸「なに、そうじゃありません、湯の中でお産をしたんだそうです」
などといろ/\評議をしているが、何《なん》だか訳が分りません。処へ参ったのは業平文治で、姿《なり》は黒出《くろで》の黄八丈《きはちじょう》にお納戸献上《なんどけんじょう》の帯をしめ蝋色鞘《ろいろざや》の脇差《わきざし》をさし、晒《さらし》の手拭を持って、ガラリッと障子を開けますと、
番「へー旦那《だんな》いらっしゃいまし」
文「はい、何か表へ人立《ひとだち》がして居るが間違いでもあったのか」
番「どうかお構いなく、文庫へお脱ぎなさいまし」
文「いや/\、人立がすれば往来の者も困りますし、お前も困るだろうが、一体どうした間違いだえ」
番「旦那様、山の浮草に出て居たお浪と云う悪党女と知らない者ですから、堺屋の番頭さんが湯の中で度々《たび/\》冗談を致し、今日も怪《け》しからん事を致したものですから、番頭さんの手拭を引奪って置いて、番頭さんが湯から上るのを待っていて、彼《あ》の通り詫《わび》るのを聴かないで主人へ掛合うと云うから、主人が五六十両も強借《ゆす》られて、番頭さんも追出されますのでしょう」
文「それは気の毒な事だ、私《わし》が中へ入って詫をしてやりましょう」
番「旦那様が中へ入って下されば宜しゅうございますが、若《も》し貴方《あなた》の御迷惑になるといけませんから、お止《よ》しなすった方が宜しゅうございます」
文「いや/\入って見ましょう」
と云いながらツカ/\とお浪の側へ参り、
文「おい/\姉さん何だか悉《くわ》しい訳は知りませんが、聞いていれば此の人は人違いでお前さんに悪戯《じょうだん》をしたのだそうだから、腹も立とうが成り替って私《わし》が詫びましょうから、勘弁して此の人を帰して下さい、そうお前さんのように無闇に人を打《ぶ》つものではありません」
浪「どな
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