ま》と間違えるくらいな訳であります。これはその筈《はず》で、文治は品行正しく、どんな美人が岡惚《おかぼ》れをしようとも女の方は見向きもしないで、常に悪人を懲《こら》し貧窮ものを助ける事ばかりに心を用いて居ります。その昔は場末の湯屋《ゆうや》は皆|入込《いれご》みでございまして、男女《なんにょ》一つに湯に入るのは何処《どこ》かに愛敬のあるもので、これは自然陰陽の道理で、男の方では女の肌へくっついて入湯を致すのが、色気ではござりませんが只|何《なん》となくいゝ様な心持で、只今では風俗正しく、湯に仕切りが出来まして男女の別が厳しくなりましたが、近頃までは間が竹の打付格子《ぶっつけごうし》に成って居りまして、向うが見えるようになって居りますから、左の方を見たいと思うと右の頬《ほゝ》ばかり洗って居りますゆえ、片面《かたッつら》が垢《あか》で斑《ぶち》になっているお人があります。其の頃本所|中《なか》の郷《ごう》に杉の湯と云うのがありました。家《うち》の前に大きな杉の木がありますから綽名して杉の湯/\と云いますので、此の湯へ日暮方になって毎日入湯に参りますのは、年のころ廿四五で、髪は達摩返《だるまがえ》しに結いまして、藍《あい》の小弁慶の衣服《きもの》に八反《はったん》と黒繻子《くろじゅす》の腹合《はらあわせ》の帯を引掛《ひっか》けに締め、吾妻下駄《あづまげた》を穿《は》いて参りますのを、男が目を付けますが、此の女はたぎって美人と云う程ではありませんが、どこか人好きのする顔で、鼻は摘みッ鼻で、髪の毛の艶《つや》が好《よ》くて、小股《こまた》が切上《きれあが》って居る上等物です。此の婦人に惚れて入湯の跡を追掛《おいか》けて来て入込みの湯の中で脊中《せなか》などを押付《おっつ》ける人があります。その人は中の郷の堺屋重兵衞《さかいやじゅうべえ》と云う薬種屋《きぐすりや》の番頭で、四十二になる九兵衞《くへえ》と云う男で、湯に入る度《たび》に変な事をするが、女が一通りの奴でないから、此奴《こいつ》は己《おれ》に岡惚れをしているなと思い、態《わざ》と男の方へくっついて乙な処置振りをしますから、男の方は尚更増長致します。丁度九月二日の事で、常の如く番頭さんが女の方へ摺寄《すりよ》って来るとき、女の方で番頭の手へ小指を引掛《ひっか》けたから、手を握ろうとすると無くなって仕舞うから、恰《まる》で金魚を探すようで、女の脊中を撫でたりお尻《しり》を抓《つね》ったりします。彼《か》の女は悪党でございますから、突然《いきなり》に番頭の手拭を引奪《ひったく》って先へ上って仕舞いましたゆえ、番頭は彼《あ》の手拭を八つに切って一ツはお守へ入れてくれるだろうと思っていると大違いで、女は衣類《きもの》を着て仕舞い、番台の前へ立ちましたが、女の癖に黥《いれずみ》があります。元来此の女は山《やま》の浮草《うきくさ》と云う茶見世へ出て居りました浮草《うきくさ》のお浪《なみ》という者で、黥|再刺《いれなおし》で市中お構いになって、島数《しまかず》の五六|度《たび》もあり、小強請《こゆすり》や騙《かた》り筒持《つゝもた》せをする、まかな[#「まかな」に傍点]の國藏《くにぞう》という奴の女房でございますからたまりません、
 浪「一寸《ちょっと》番頭さん」
 番「へい、なんでございます」
 浪「あの少し其処《そこ》ではお話が出来ないから此処《こゝ》へ下りておくれよ、毎晩私に悪戯《いたずら》をする奴があるよ、私の臀《しり》を抓ったり脊中を撫でたりするのはいゝが、今日は実に腹が立ってたまらないから、其奴《そいつ》を此処へ引摺り出しておくれ、私も独身《ひとりみ》じゃアなし、亭主《ていしゅ》もあるからそんな事をされては亭主に対して済みません、引出しておくれよ」
 番「誠にお気の毒様でございますが、込合う湯の中でございますから、あなたがその人の顔を覚えて入らっしゃらないでは、此処へ出ておくんなさいと云っても、誰《たれ》も出る者はありませんから分りません、へい」
 浪「さア証拠のない事は云わないよ、其奴の手拭を引奪って来たから手拭のない奴を出しておくれ」
 番「へい、誰方《どなた》ですか、そんな悪戯をして困りますなア、どうか皆さんの中《うち》で手拭のない方はお出なすって下さい」
 男「おい番頭さん己《おれ》は手拭を持ってるよ」
 番「宜《よろ》しゅうございます」
 男「己のもあるよ/\」
 番「宜しゅうございます」
 と云って皆《みん》な出て仕舞ったが、中に一人九兵衞さんと云う人ばかりは出られませんから、窃《そっ》と柘榴口《ざくろぐち》を潜《くゞ》って逃げようと思うと、水船の脇で辷《すべ》って倒れました。
 男「おい/\番頭さん見てやれ/\、長く湯に入《へえ》っていたものだから眼が眩《まわ》って顛倒
前へ 次へ
全81ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三遊亭 円朝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング