の留守にどんな非常の事があるまいものでもない、若《も》し其の裏から火事でも出たらどうするえ、中々お前が余所《よそ》から駈付けても間にあうまい、其の時お長屋の方《かた》が我《わが》荷物は捨置き、お前のお父さんを助け出す人はなかろう、混雑の中だからどんな怪我がないものでもない、さすれば却って不孝になりますよ、神仏《かみほとけ》と云うものは家《うち》にいて拝んでも利益《りやく》のあるものだから、夜中に来てお百度を踏むのは止したほうがよろしい、未《ま》だそればかりじゃアない、お前さんのような容貌《みめ》よい女中が、深夜にあんな所に居て、悪者に辱《はず》かしめられたらどうするえ、又|先刻《さっき》のように雪に悩んで倒れていて誰も人が来なかったらどうするえ、それ故どうかお百度に出るだけは止して下さい、信心ばかりで親父《おとっ》さんの眼は治らん、名医にかけて薬を服《の》ませなければならんから、薬を服まして信心をするが宜しい、何処《どこ》のお医者に診て貰ったえ」
娘「はい、荒井町《あらいまち》の秋田穗庵《あきたすいあん》さんと云うお医者様に診て戴きましたが、真珠の入る薬を付ければ治るけれども、それは高いお薬で貧乏人には前金《ぜんきん》でなければ遣《や》られないと仰しゃいましたけれど、四十金もなければなりませんそうでございます」
文「フム、それでは四十金で必ず治ると医者が受合いましたかえ、それじゃア爰《こゝ》に四十金持合せがありますから、これをお前さんに上げましょう」
森「旦那、何をするのです、およしなせえ、おまえさんは知らないが斯う云うものには贋物《にせもの》が多い、貧乏人の子供が表に泣いていて、親父《ちゃん》もお母《かあ》もいない、腹がへっていけねえと云ってワーッと泣くから、可愛そうだと思って百もやると材木の間に親爺《おやじ》が隠れていて、此方《こっち》へ来い/\と云って、又人が来ればワーッと泣き出す奴があります、又|躄《びっこ》だと思った乞食《こじき》が雨が降って来ると下駄を持って駈出《かけだ》しやす、世間にはいくらもある手だから、これも矢張《やっぱ》り其の伝でしょう、お止しなせえ/\」
文「まア宜しい、黙っていろ、姉さん爰に四十金あるからこれをお前に上げましょう、其の代りお百度に出る事はお止め申すよ」
娘「はい、どう致しまして、見ず知らずの方に四十金と云う大金を戴く事は出来ません」
亭「折角《せっかく》だから戴いて行《ゆ》きな、これは業平橋にお住居《すまい》なさる文治様と云う旦那だよ」
娘「有り難うございますが、親父が物堅うございますから、仮令《たとえ》手拭一筋でも人様から謂《いわ》れなく物を戴いて参ると直《すぐ》に持って往って返えせと申しますくらいでございますから、金子などを持って往《ゆ》けば立腹致して私《わたくし》を手打にすると申すかも知れません、戴きたい事は山々でございますが、私《わたくし》が持って帰っては迚《とて》も受けませんから、お慈悲|序《つい》でに恐れ入りますが、貴方が持って往って直《じか》に親父にお渡し下されば親子の者が助かります、眼さえ治れば直《すぐ》にお返し申しますから何卒《どうぞ》そう為すって下さいまし」
文「はい/\これはお前さんに遣るのは悪るかった」
森「これは真物《ほんもの》ですなア、贋物なら直《すぐ》に持って往《ゆ》くのだが、こりゃア真物だ」
文「姉さんお前は何処《どこ》だえ」
娘「はい、松倉町二丁目でございます」
文「それは聞いたがお前の家《うち》は松倉町の何《ど》の辺だえ」
娘「はい、葛西屋《かさいや》と云う蝋燭屋《ろうそくや》の裏でございます」
森「フム、けちな蝋燭屋だ」
文「お父さんは何をしておいでだえ」
娘「筆耕書《ひっこうかき》でございます」
森「なんだとシッポコかきだとえ」
文「なアに版下《はんした》を書くんだ、お父さんの御尊名は何と仰しゃいますえ」
娘「はい小野庄左衞門《おのしょうざえもん》と申します」
文「何処《どちら》の御藩中ですか」
娘「中川山城守《なかがわやましろのかみ》の藩中でございます」
文「士気質《さむらいかたぎ》ではうっかりお受取《うけとり》なさいますまいから、明日《みょうにち》私が持って往って上げましょう、気を付けてお帰んなさいよ」
娘「有難うございます、左様なら」
文「此処にお茶受に出たお菓子があるから持っておいで、あれさ、食物《たべもの》は宜しい」
と紙へ沢山包んで、
文「さアお持ちなさい」
と出された時は孝行な娘だから親に旨い物を食べさせたいが、窮して居りますから何一つ買って食べさせられないから、
娘「有難うございます」
と云って手に取って貰う時に、始めて文治の顔を見ますと、美男の聞えある業平文治でござります、
前へ
次へ
全81ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三遊亭 円朝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング