…今夜はどうしても私《わし》は行《ゆ》かなければならぬ、お母様に何卒《どうぞ》知れぬようにして下さい、決して心配するな、直《じ》き往って来るから」
 町「はい、お止め申しませぬ……御機嫌宜しゅうお帰り遊ばして」
 と縁側まで送り出し、御機嫌宜しゅうと袖に縋《すが》って文治郎の顔を見上げる。文治郎は情深い者でございますから、あゝ可愛そうに、己は帰れるやら帰れぬやら知れぬに、気の毒なことゝ思うが、仕方がないから袖を払って三尺の開きをあけて、庭から出まして、これから北割下水へ掛って来ますると、夜《よ》は森々《しん/\》と致して鼻を抓《つま》まれるのも知れません。大伴蟠龍軒の門前まで来ると、締りは厳重で中へ這入る事は出来ません、文治郎は細竹を以《もっ》てズーッと突きさえすれば、ヒラリと高い屋根へ飛上《とびあが》る妙術のある人でございますから、何《なん》ぞ竹はないかと四辺《あたり》を見ると、蚊を取ります袋の付きました竹の棒がある「本所に蚊が無くなれば師走《しわす》かな」と云う川柳の通り、長柄《ながえ》に袋を付けて蚊を取りますが、仲間衆《ちゅうげんしゅう》が忘れでもしたか、そこに置いてありましたから、其の袋を取ってぱっと投げますると、風が這入って袋の拈《より》が戻ったから、中からブウンと蚊が飛び出しました。文治郎は情深い人で、蚊まで助けましたから、今でもブウン/\と云って忘れずに文治郎の名を呼んで飛んで居ります。竹を突いて身軽に門番の家根へ飛上り、又竹を突いてさっと身軽に庭へ下りて、音のせぬように潜み、勝手を知った庭続き、檜《ひのき》の植込《うえご》みの所から伝わって随竜垣《ずいりゅうがき》の脇に身を潜めて様子を窺《うかゞ》うと、長《なが》四畳で、次は一寸《ちょっと》広間のようの所がありまして、此方《こちら》に道場が一杯に見えます。酒を飲んでグダ/\に酔って弟の蟠作が、和田原安兵衞と云う内弟子と二人で話をして居りますが、話をする了簡だけれども、食《くら》い酔って舌が廻りませんから些《ちっ》とも分りません、酒の相手は仕倦《しあ》きて妾のお村が浴衣《ゆかた》の姿《なり》で片手に団扇《うちわ》を持って庭の飛石《とびいし》へ縁台を置き、お母《ふくろ》と二人で涼んで居ります。
 崎「さアお休みなさいよう、お村が早く寝たいと云いますよう……御舎弟様大概に遊ばせよう、お村が怒《おこ》って居りますよ」
 村「若旦那お休みなさいよう」
 蟠「そんなことを云って、まア鬼のいない中《うち》の洗濯じゃアないか……なア安兵衞、兄貴は分らぬてえものだ、此の[#「此の」は底本では「此《この》の」と「の」が重複]どうも脇差を弟に内証《ないしょう》で時々ズーッと鞘を払い、打粉を振って磨き、又納め、袋へ入れて楽しんでいるからひどい、今日は留守だから引摺り出したが、私《わし》に見せぬで隠して居《お》るのはひどい」
 安「何時《いつ》の間にお手に入れたか、これは大先生《おおせんせい》より貴方のお持ち遊ばした方が宜しい」
 蟠「兄貴は分らぬ、隠して置くはどうも訝《おか》しい、それに何《な》ぜ此の位の良い脇差に…小柄がないね」
 安「これは何《いず》れ取りあわせて拵《こしら》えるのでしょう」
 村「早くお休みなさいよ、お願いでございますよ、お母《ふくろ》も眠がって居りますから旦那」
 と云うのが庭へ響きます女の声、はア此処《こゝ》にいるのはお村|母子《おやこ》だが、此奴《こいつ》を逃してはならぬと藤四郎吉光の鞘を払って物をも云わずつか/\と来て、誰《たれ》かと眼を着けるとお村ですから「友之助ならば斯《かく》の如く」とポーンと足を斬りました。
 村「あゝ人殺し」
 と言いながら前へ倒れる。其の刀でえいと斬るとバラリッとお母《ふくろ》の首が落ちました。随竜垣に手を掛けて土庇《どびさし》の上へ飛上って、文治郎|鍔元《つばもと》へ垂れる血《のり》を振《ふる》いながら下をこう見ると、腕が良いのに切物《きれもの》が良いから、すぱり、きゃっと云うばかりで何《なん》の事か奥では酒を飲んでいて分りません。
 蟠「何《なん》だ/\」
 村「人殺し/\」
 安「それは飛んだこと」
 とひょろ/\よろけながら和田原安兵衞が来て、
 安「どう遊ばした、お母様《ふくろさま》も怪《け》しからぬ……何者でござる、確《しっか》り遊ばして」
 と言いながらお村を抱き起そうとする時、後《うしろ》から飛下りながら文治郎がプツリッと拝み討ちに斬りますと、脳をかすり耳を斬落《きりおと》し、肩へ深く斬り込みましたから、あっと仰様《のけざま》に安兵衞が倒れました。蟠作は賊ありと知って討とうと思いましたが、慌《あわ》てる時は往《ゆ》かぬもので、剣術の代稽古をもする位だから、刀を持って出れば宜《よ》いに、慌てゝ居りますから心得のない
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