》は背きませんが、一々|斯《こ》うしろ彼《あ》ア致せと御意遊ばせば、届かぬながらも心に掛けて何ごとでも致し、お母様《っかさま》にも御孝行を尽します、どうか身寄り頼りのない不憫の者と思召して、旦那さまお情を掛けて下さるようお見捨なさらぬように」
とポロリと溢《こぼ》す一《ひ》と雫《しずく》、文治郎はこれを見て、あゝ嫁に来た晩に荒々しい身なりをして出て行《ゆ》くのを見れば驚くであろうと思いましたけれども、癇癖が高ぶって居りますから気を取直《とりなお》して、
文「夫婦は其の初見《しょけん》に在りと、初見参《しょけんざん》の折《おり》に確《しか》と申し聞ける事は、私《わし》より母の機嫌を取り能く勤めてくれんではならぬ、又人間は老少不定《ろうしょうふじょう》ということがある、明日にも親に先立ち私《わし》が死ぬまい者でもない、其の折は私《わし》になり代って母に孝行を尽してくれられるだろう、亭主が死んで姑《しゅうと》の機嫌を取るのがいやだと云って此の家を出る志はあるまい、念のため夫婦の道じゃに依《よ》って教え置きます」
町「それは御意遊ばすまでもございません、貴方はそんなことはございますまいが、お母《っか》さまの御機嫌を取り、御介抱を致しますのは私《わたくし》の役でございまするで、決して粗略には致しません」
文「はい、私《わし》は性質癇癖持ちで、詰らぬことに怒りを生じて打ち打擲することがある、弱い女や子供を打擲することは嫌いだが、意に逆らうと癇癖に障ります、決して逆らってくれまい」
町「どう致しまして、お辞《ことば》は背きません」
文「それは辱《かたじ》けない、それでは申し聞けるが、文治郎今晩これから直ぐに出て行《ゆ》きます、今晩はお前が嫁に来たばかりだから留《とゞま》りたいが、出て行《ゆ》かなければならぬ、私《わし》が出て往った後《あと》で、お母様《っかさま》がお目が覚めて文治郎はとお問い遊ばした時、文治郎は能く眠り付いて居ります、御用なれば私《わたくし》へ仰せ聞けられて下さいと云って、お前が引受けてくれぬでは困る」
町「何処《どこ》へお出《いで》になります、何時《いつ》お帰りになります」
文「帰りは明方《あけがた》でございます、若し是非ない訳で帰れんければ四五十年は帰れぬ、たった一人の大切のお母様《っかさま》、私《わし》になり代って孝行を尽してくれぬでは困る」
町「はい四五十年お帰り遊ばされぬというのは其りゃどういう訳でございますか」
文「深く問われては困る、義に依って行《ゆ》かなければならぬ処がある、辞返《ことばがえ》しをすることはなりませんよ」
町「はい」
とおど/\して見て居りますと、風呂敷包のなかから南蛮鍜《なんばんきた》えの鎖帷子《くさりかたびら》に筋金《すじがね》の入りたる鉢巻をして、藤四郎《とうしろう》吉光《よしみつ》の一刀に關《せき》の兼元《かねもと》の無銘摺《むめいす》り上げの差添《さしぞえ》を差し、合口《あいくち》を一本呑んで、まるで讐討《かたきうち》か戦争にでも出るようだから恟《びっく》りいたしまして、
町「旦那さま、どういう御立腹のことがございますか存じませんが、お母《っか》さまも取る年、あなたのお身にひょんな[#「ひょんな」に傍点]ようなことでもございますれば、お母様《っかさま》はどのくらいお嘆きなさるか知れません、どうか私《わたくし》に面じてお許し下さいまし」
文「あーれ、それだから困る、それだから辞《ことば》を返すことはならぬと申し聞けたではないか」
町「お辞は返しません」
文「そんなら宜しい」
と庭へ下りて、無地の手拭を取って面部を包み、跣足《はだし》で出て行《ゆ》きますからお町はおど/\しながら袖《たもと》に縋《すが》り、
町「申し、旦那さま、御機嫌よう」
文「うん頼むぞ」
三尺の開きを開けて出て行《ゆ》きました。跡を閉《た》てゝお町はあゝ情《なさけ》ないことだと耐《こら》え兼て覚えず声が出ます。泣声がお母《っか》さまに知れてはならぬと袂を噛《か》みしめて蚊帳の外に泣《なき》倒れます。彼《か》れ此れ明《あけ》七つ頃に庭の開きをかち/\と静かに敲《たゝ》きます。
文「お町/\」
町「はい、お帰り遊ばしたか」
と其の儘|飛石《とびいし》伝いに下りて行《ゆ》きます。其の晩は大伴を斬り損ないまして癇癖に障ってなりません。これから風呂敷を解いて衣服《きもの》を着替え、元のように風呂敷包を仕舞って寝ようと思いましたが、これまで思い付いた宿志《しゅくし》を遂げないから、目は倒《さか》さまに釣《つる》し上り、手足は顫《ふる》え、バターリッと仰向《あおむけ》さまに寝て仕舞いました。仰向に寝たが寝られませんから、又|此方《こっち》を向くと、それでも寝られませんから又|起上《おき
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