者の処へ往ってくれまいか」
 忠「何処《どこ》でございます」
 蟠「松倉町二丁目の葛西屋《かさいや》という蝋燭屋《ろうそくや》の裏に小野庄左衞門という者がある、其の娘を貰おうとした処が、私《わし》のことを馬鹿士とか何《なん》とか云ったが其の儘になって居《お》る」
 忠「能く御辛抱でございましたねえ」
 蟠「そこで仕返しをすると他《た》の人がやっても私《わし》のせいになるから、そんな小さい処へ取合わんで、時たってからと思って居った処が、去年の五月から今まで経《た》ったから丁度宜しい」
 忠「へー、あの時お腹立になれば仮令《たとえ》他《ほか》でやっても貴方がしたと思いますが、それを今までお捨置《すておき》は恐入りますねえ、どう云う事になります」
 蟠「貴公が医者の積《つも》りで往ってくれんではいかぬ」
 忠「何処《どこ》へ」
 蟠「浪人者が眼が悪い、三年越しの眼病で居《お》るから、秋田穗庵が薬をやって居《お》る、そこへ貴公が往って向うが内職に筆耕を書くから、親から譲られた書物を版本にしたいから筆耕を書いてくれというと、向《むこう》は目が悪いから、折角の頼みだが目が悪いから書けないという、私《わし》は医者だ、眼病には家法で妙な薬を知って居《お》るが、何処の医者に掛って居《お》るかというと向うで秋田穗庵に掛ったという時|蔑《けな》すのだ、彼《あれ》は藪《やぶ》医者でいかぬ、私《わし》の家伝に妙な薬があるからやる、礼はいらぬたゞやると云う、たゞは貰えぬと云うから、そんなら癒《なお》ったら書物を書いて貰いたいという、そこで目を治させるという情《じょう》の処でやるのだ」
 忠「成程、恐入りましたねえ、仇《あだ》のある者に仇を復《か》えさず、仇を恩で復えして置いて、娘を己《おれ》の処へ嫁にくれぬかというと、向うで感心して、手付かず貰えますな」
 蟠「そうではない、向うでも中々学問のある奴だから答が出来んではならぬ、それは穗庵に聞いて薬もあるが、早稲田《わせだ》に鴨川壽仙《かもがわじゅせん》という針医がある、其の医者が一本の針を眼の側《わき》へ打つと、其処《そこ》から膿《のう》が出て直ぐ治る、丁度今日|行《ゆ》けば施しにたゞ打ってくれる、目は一時《いっとき》を争うから直ぐ行くが宜しい、私《わし》が手紙を書いても宜しいが、施しだからお出《いで》なさいというと、勧めによってひょこ/\出て行くだろう、処が鴨川壽仙は浅草山の宿《しゅく》へ越したから、それを知らずに早稲田まで行くと空しくなる、これから貴公が往って勧めて早稲田まで行くと夜遅くなり、お茶の水辺りへ来ると、九ツになる、其処《そこ》へ私が待合《まちあわ》せて真二《まっぷた》つにするという趣向はどうだ」
 忠「是は御免を蒙《こうむ》りましょう、先生は御遺恨があるか知れませんが、私《わたくし》は遺恨はございませんから、一刀の下《もと》に斬って捨るのを心得て呼出すのは難儀でございます」
 蟠「貴公が殺すのではない、私《わし》が殺すのだ」
 忠「殺すのではございませんが、蛇が出た時あゝ蛇が出たと云うと、殺した奴より教えた奴に取付くと云いますから止しましょう」
 蟠「そんなら廃《よ》せ、首尾|好《よ》く行《ゆ》けば、先達《せんだっ》て貴公が欲しいと云った脊割羽織《せわりばおり》と金を廿両やる積りだ」
 忠「誠に有難うございます、頂戴致したいは山々でございますが、これはなんですなア」
 蟠「貴公だって真面目な人間ではない、先達て友之助を賭碁で欺いたときも同意して、貴公も礼を受けていようではないか、蟠作から礼を受ければ悪人の同類だ、悪事が露顕すれば素首《すこうべ》のない人間だ、毒を喰わば皿までというから貴公も飽《あく》までやりな」
 忠「やりましょう、やりましょうが、医者のことを心得ませんから」
 蟠「それは教われば宜しい」
 と話をしている処へ穗庵がつか/\と這入って参りました。
 穗「へー今日《こんにち》は」
 蟠「さア此方《こっち》へ」
 穗「先刻お人でございましたが、余儀ない用事で遅くなりました…いやこれは阿部|氏《うじ》」
 忠「これは久し振りでお目に懸りました、一昨日から飲過ぎて暑さに中《あた》り、寝ていて、今日《こんにち》漸《ようや》く出て参りました、今先生に聞いたが医者のことを聞かせてくれなくってはいかぬ」
 穗「阿部氏は得心しましたか」
 蟠「得心したから教えてくれぬではいかぬ」
 穗「宜しい、眼病には内障眼と外障眼と二つあるが、小野庄左衞門のは外障眼でない、内障眼という治《じ》し難《がた》い眼病だ、僕も再度薬を盛りましたが治りません、真珠《しんじゅ》麝香《じゃこう》辰砂《しんしゃ》竜脳《りゅうのう》を蜂蜜《はちみつ》に練って付ければ宜しいが、それは金が掛るから、娘を先生の妾にくれゝば金を出
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