さずと云うお父様の御遺言《ごゆいごん》を忘れたか、母の誡《いまし》めも忘れて、額《ひたい》へ疵を拵えて来るような乱暴の者では致し方がない」
 文「いえ/\中々喧嘩口論などは彼《あ》の後《ご》は懲りて他《よそ》へも出ませんくらいでございますから決して致しません」
 母「いゝえなりません、男親なら手討にする処私も武士の家に生れ、浪島の家へ嫁《かたづ》きましたが、親父様《おやじさま》のない後《のち》は私がなり代って仕置をしなければならぬ、何《なん》のことだか血の流るゝ程面部へ傷を付けて来るとは怪《け》しからぬ、其の方の身体ではあるまい、母の身体であるぞ、其の母の身体へ傷を拵えて来るのは其の方が手を下《おろ》さずとも母の身体へ其の方が傷を付けたのも同じこと、又先方の者を手前が斬って来た様子」
 文「どう致しまして、なか/\人を害すようなことは先頃から致しません」
 母「いゝえ成りません、顔の色が青ざめて唇の色まで変って居《お》る、先方の人を殺さなければ、これから斬込むという様子、若《も》し未《ま》だ殺さなければ母の身体に傷を付けた者を何《な》ぜ斬らぬ、母の敵《かたき》と云って直ぐ斬ったろう」
 文「へー……」
 文治郎は癇癖に障った処へ聞取《きゝとり》を違いまするのは、成程自分の身体は母の身体である、あゝ母の身体へ傷を付けた大伴兄弟を捨置いて其の儘帰ったのは自分の過《あやま[#「ま」は、底本では欠如]》りである、よし/\今晩大伴蟠龍軒の道場へ斬込んで、皆殺しにしてやろうと云う念が起りました。これは聞き様の悪いので、母親は其の心持ではない、文治郎を戒める為にうっかり云いましたことを、此方《こちら》は怒《おこ》っているから聞違えたのでございます。母は立腹致しまして、
 母「次の間へいって慎《つゝし》んで居れ」
 文「へー」
 と文治郎は次の間へ来て慎んで居りましたが、腹の中《うち》では今晩大伴の道場へ踏込んで兄弟を殺し、あゝ云う悪人の臓腑はどういうものか臓腑を引摺り出してやろうと考えて居《お》る。母は文治郎が人を斬って来た様子もないが、今夜抜け出されては困ると思って、
 母「文治、少し気分が悪いから枕もとにいて下さい」
 文「へー、お脊中でも擦《さす》りましょうか」
 母「はい、来て脊中を擦って下さい、そうして読掛けた本を枕もとで読んで下さい」
 仕方がないから本を読んで居りますと、母はすや/\寝るようでございますから抜け出そうとすると、
 母「文治、何処《どこ》へ行《ゆ》きます」
 文「鳥渡《ちょっと》お湯を飲みとうございますから次の間へ参ります」
 母「私もお湯を飲みたいから此処《こゝ》へ持って来て下さい」
 と云う。又少したって寝たようだから抜けようとすると文治々々と呼びます。夜徹《よどお》し起します。昼は文治郎を出さぬように付いて居りますから、仕方なく七日八日|過《すご》します。母も其の中《うち》には文治郎の気が折れて来るだろうと思って居りました。お話し二つに分れまして、蟠龍軒はお村を欺き取って弟の妾にして、御新造《ごしんぞ》とも云われず妾ともつかず母|諸共《もろとも》に此《こゝ》に引取られて居ります。兄蟠龍軒は別間《べつま》に居りましたが、夕方になりましたから庭へ水を打って、涼んで居ります処へ来たのは阿部忠五郎という男でございます。七つ過ぎの黒の羽織にお納戸献上の帯を締め耳抉《みゝくじ》りを差して居ります。
 忠「誠に存外御無沙汰を致しました、どうも酷《きび》しいことでございます」
 蟠「これは能く来た、誠に暑いことで、先頃は色々お世話になりました」
 忠「先頃は度々《たび/\》お心遣いを頂戴致して相済まぬことで、あゝ首尾|好《よ》く行《ゆ》こうとは心得ません、お村さんは御舎弟さまの御新造さまとお取極《とりきま》りになったのでございますか」
 蟠「何処《どこ》からも臀《しり》も宮《みや》も来ず、友之助は三百両持って取りに来ようという気遣いもない、先《ま》ず私《わし》も一と安心した」
 忠「御舎弟様の奥様が極って、お兄《あにい》様の奥様は何か極《きま》ったものはありませんか」
 蟠「どうも小意気なものは剣術|遣《つか》いの女房になる者はない」
 忠「昨年の暮浪人者の娘を掛合に往《い》った処が、御門弟を辱《はじ》しめて帰したことがございましたが、彼《あ》の儘でございますか」
 蟠「あれは彼《あ》の儘だ」
 忠「御門弟の方に聞きました処が、脇から妙な者が出て来て、先生のことを馬鹿士《ばかざむらい》とか申したと云って御門弟が残念がって居りました」
 蟠「丁度|好《よ》い幸いだ、貴公が来たのは妙だ、貴公の姿《なり》の拵えなら至極妙だ、少し折入《おりい》って頼みたいことがある、今に秋田穗庵が来るから穗庵から細かいことを聞いて、彼《あ》の浪人
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