引裂《ひっさ》く程の剛敵なる気性の文治郎ゆえ、捨置き難《がた》き奴、彼を助けて置かば、此の道場へ稽古に来る近所の旗下《はたもと》の次男三男も此の悪事に染り、何《ど》の様なる悪事を仕出《しいだ》すか知れぬ此の大伴蟠龍軒を助けて置く時は天下の為にならぬから、彼を討って天下の為衆人の為に後《のち》の害を除こうと、癇癖に障りましたから兼元の刀へ手を掛けようと身を動かすと、水色の帷子に映りましたのは前月《あとげつ》母が戒めました「母」という字の刺青《ほりもの》を見て、あゝ悪い処へ掛合に来た、母が食を止めて餓死するというまでの強意見《こわいけん》、向後《こうご》喧嘩口論を致し、或《あるい》は抜身の中へ割って這入り、傷を受けることがあらば母の身体へ傷を付けたるも同じである、以後慎め、短慮功を為さずと此の二の腕へ母が刺青を為したは、私《わし》が為を思召しての訳、其の母の慈悲を忘れ、義によって斯様《かよう》なる処へ掛合に来て、父母の遺体へ傷を付けるのは済まぬ事である、母へ対して済まぬから此処《こゝ》は此の儘《まゝ》帰って、母を見送ったる後《のち》は彼等兄弟は助けては置かれぬと、癇癖をこう無理に押え付けて耐《こら》えまするは切《せつ》ないことでございます。尚更|此方《こっち》は高ぶりまして、
蟠「やい/\此処《こゝ》を何処《どこ》と心得て居《お》る、大伴蟠龍軒の道場へ来て、手前達が腕を突張《つっぱ》り、弱い町人や老人を威《おど》かして侠客の男達《おとこだて》のと云う訳にはいかぬ、苟《かりそ》めにも旗下《はたもと》の次男三男の指南をする大伴蟠龍軒を何《なん》と心得る、帰れ/\」
門弟がつか/\と来て、「さア帰らっしゃい、強情を張ると却《かえ》って先生の癇癖に障るから帰れ/\」
さき「誠に有難うございます、あなた方の前では此の通りでございます、小さくなって碌に口もきけませんが、私のような弱い婆《ばゞあ》の前では、咽喉《のど》をしめるの何《なん》のと云って脅しました、先生の前では何《なん》とも云えまい、咽喉をしめるなら締めて見ろ」
和田原安兵衞というのが「帰れ/\」と云いながら文治郎の手を取って引こうとすると、七人力あるから中々動きません。
安「何《なん》だ、帰らぬかえ」
文「先生、文治郎が能く事柄も弁《わきま》えませずに斯《かゝ》るお席へ参り、不行届《ふゆきとゞき》の儀を申上げて、却ってお腹立の増すことに相成《あいなり》重々恐入ってござる、此のお詫言《わびごと》には重ねて参りますから左様御承知下され」
とずっと後《あと》へ下《さが》って、兼元の脇差を左の手に提げたなりで玄関から下りようとすると、文治郎の柾の駒下駄が外に投《ほう》り出して、犬の糞《くそ》などが付けてあります。尚々《なお/\》癇癖に障りますが、跣足《はだし》で其処《そこ》を出《い》で、近辺で履物《はきもの》を借り、宅へ帰ったのは只今の七時頃でございます、母は心配して待って居ります。文治郎は中の口から上りますると、森松も案じて、
森「余《あんま》り帰《けえ》りが遅いから様子を聞きに行《ゆ》こうと思って居りました、お母《っか》さんの前《めえ》は仕方がねえから、前橋《めえばし》の新兵衞さんが来て海老屋で一猪口《いっちょく》始まって居りやすと云って置きやした、蟠龍軒は驚いて直ぐに極《きま》りが付きやしたろう」
文「心配せんでも宜しい、お母《っか》さまに鳥渡《ちょっと》お目に懸ろう」
母「文治が帰ったようではないか」
森「お帰《けえ》りでございます」
母「さア此方《こっち》へお這入り」
文「御免下さい、大きに遅なわりました、松屋新兵衞も御機嫌を伺います筈でございますが、繁多《はんた》でございまして、存じながら御無沙汰になりました、宜しく申上げてくれるようにと申し、大きに馳走になりました」
母「大分《だいぶ》遅いから案じて居ったが、あの人は堅いからお前に助けられた恩を忘れず、江戸へ出さえすれば再度訪ねてくれます、殊に毎度手紙を贈ってくれて、あゝ云う人と遊んで居《お》ると心配はありません、直ぐにお帰りかえ」
文「直ぐに宿屋まで帰りました」
母「それは宜かった、お前の帰りが遅いと案じて居《お》る……文治郎お前の額《ひたえ》は」
文「エ……」
母「余程の疵だ、又喧嘩をしたのう」
文「いえ喧嘩ではございません、つい曲り角でそげ竹を担《かつ》いで居《お》る者に出逢い、突掛《つきかゝ》りました、無礼な奴と申し叱りました処が、詫を致しますから捨置きました」
母「いえ/\竹の疵ではない、お前の帰りが遅いから心配していた、つい先月お前の二の腕に刺青《ほりもの》をしてお父様《とっさま》に代って私が意見をしたのを忘れておしまいか、お前は性来《せいらい》で人と喧嘩をするが、短慮功を為
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