去年牛屋の雁木で心中する処を助けられ、漸《ようや》く夫婦になった者を、取られた上に打ち打擲されて、これもお村故でございます、仮令《たとえ》一晩でも取返して女房にした上、表へ逐出《おいだ》そうとも、彼奴が鬢《びん》の毛を一本々々引抜いて鼻でも切って疵だらけにしなければ腹が癒《い》えませんから」
文[#「文」は底本では「森」と誤記]「其様《そんな》ことをしたって詰らぬから、私《わし》の言うことを聞いて、あれは諦めな、負けたのはお前の過《あやま》りだから、百両の金で不実な女房を売ったと思って、諦めた方が宜しい」
友「私《わたくし》は諦められません、私《わたくし》が取《とり》かえして半年でも女房にして逐出します」
文「出したり入れたりしては詰らぬから、それよりはお村よりも優《まさ》った立派な女房を文治郎が世話をしようから、あれは諦めな、為にならぬから」
友「為にはならぬが、あの畜生、お村様と云えと云いました」
文「諦めなよ」
友「あきらめられません、三日でも宜しい、三日夫婦になって、彼奴《あいつ》の顔を疵だらけにして逐出します」
文「そんな奴があるものか、お村に未練があるなればお断りだ」
森「しょうがねえ、友さん、旦那があきらめろと云うから諦めねえよ」
文「諦めるなれば百両は取返して遣《や》ろう、だがそれ程企んで取った百両だから、返すかどうか知れぬ、元より取返そうとすれば喧嘩になり、退《ひ》くに退かれなければ世間を騒がせなければならぬ、お前に気の毒だから、若し向うで百両を返さぬとなれば百金は私《わし》が償《つぐな》ってお前に上げる心得だ、お前の為に百両は損をする気で中へ這入るのだから、其の志を無《む》にしないで、お村を諦めなさいよ」
友「へー/\私《わたくし》はあきらめましょうが口惜《くやしゅ》うございます、私は実に残念でございます」
文「嘸《さぞ》残念であろうが、其の代り後《あと》は幸福《しあわせ》になる」
友「彼奴《あいつ》を諦めます代りには彼奴唯は置きません、走り大黒様へ針を打ちます」
文「そんな詰らぬことを云ってはいかぬ、何処《どこ》か近所に医者があるだろう」
と茶店の亭主に医者を尋ねさせ、外科医者が来て頭の疵に膏薬《こうやく》を付け、駕籠に乗せて友之助を帰し、翌日夕景から、母の前は松新が迎いに来た体《てい》にして、文治郎は大伴蟠龍軒の玄関先へかゝり、
文「頼む/\」
大伴の表へは水を打って掃除も届き、奥には稽古を仕舞って大伴蟠龍軒兄弟が酒宴《さかもり》をしている。姑《しばら》くして「玄関に取次《とりつぎ》があるよ、安兵衞《やすべえ》」
安「へー」
つか/\と和田安兵衞が取次に出ました。と見ると文治郎水色に御定紋染《ごじょうもんぞめ》の帷子《かたびら》、献上博多の帯をしめ、蝋色鞘《ろいろざや》の脇差、其の頃|流行《はや》った柾《まさ》の下駄、晒《さらし》の手拭を持って、腰には金革《きんかわ》の胴乱を提《さ》げ、玄関に立った姿は誰《たれ》が見ても千石以上取る旗下《はたもと》の次男、品《ひん》と云い愛敬と云い、気高《けだか》いから取次の安兵衞は驚いて頭を下げ、
安「何方様《どなたさま》から」
文「手前は業平村に居ります浪島文治郎と申しますえー粗忽《そこつ》の浪士でござるが、先生にお目通りを願いたく態々《わざ/\》出ました」
安「少々お控え下さい」
とつか/\奥へ行《ゆ》くと、頻《しき》りに酒を飲んでいる。
安「先生、浪島文治郎という業平村に居ります者が先生にお目通り願いたいと申します」
蟠「どんな奴だ」
安「へー、誠に好《い》い男で、どうも色の白いことは役者にもありません、眼の黒い眉の濃い綺麗な男で、水色の帷子を着て旗下の次三男と云う品《ひん》でげす」
蟠「そんな事はどうでも宜い…蟠作、浪島とはなんだ」
蟠作「兄上、予《かね》て聞きましたが浪島文治郎と云うは浪人者で、何か侠客《きょうかく》とか云う、町人を威《おど》し、友之助のことに世話をする奴で、友之助の事に就《つ》いて掛合に参ったのでございましょう」
蟠「あゝそうか」
崎「先生、それでございますよ、参ったら油断してはいけません、怖い奴です、見た処は虫も殺さぬような、しと/\ものを言うが、一つ反対返《でんぐりかえ》ると鬼を見たような奴です、お村を取還《とりかえ》しに来たって貴方はいと云っては親子のものが困りますから、どうかして下さいよ、お村逃げな/\」
蟠「はアそれは面白い、酒の肴に嬲《なぶ》ってやろう、呼べ/\」
と悪い所へ参りました。文治郎は案内に連れられまして奥へ通りますと、道場の次の座敷の彼《か》れこれ十畳もあります所へ、大いなる盃盤《はいばん》を置きまして、皆《みん》な稽古着に袴を着けまして酒宴をして居ります
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