》いましたから此方《こっち》へ入っしゃい」
文「はい、能《よ》う御勘弁下され文治郎誠に有難く心得ます」
母「赦し難いやつなれども御両人に免じて赦すから此方へ来なさい、仕置を申付けるから」
 文「どの様なるお仕置でも遊ばして下さいまし、文治郎|聊《いさゝ》かもお怨《うら》みとは心得ません」
 母「手を出しなさい、二の腕を出しな」
 文「へい」
 と腕をまくって出すと母は文治郎の腕を確《しっ》かり押え、
 母「かやや、其処《そこ》に硯《すゞり》があるから朱墨《しゅずみ》を濃く磨《す》って下さい、そうして木綿針《もめんばり》の太いのを三十本ばかり持って来《き》な」
 喜「お母様何をなさる」
 母「仕置を致す」
 と云いながら文治郎の二の腕へ筆太《ふでぶと》に「母」と云う字を書きまして、針でズブ/\突き、刺青《ほりもの》を初めましたが、素人彫りで無闇に突きますから痛いの痛くないのって、
 母「さア、これで宜しい、私が父親《てゝおや》なれば疾《とく》に手打にして命はないのだから、手前の命は亡いものと心得ろ。これからは母の身体《からだ》だによって、若《も》し私の意見に背き、喧嘩をして身体へ傷を付ければ母の身体へ傷を付けたも同じだから、左様心得て以後はたしなめ」
 文「はゝ畏《かしこま》りました」
 喜「成程、お母様の御意見感服致した、文治郎殿、以後は気をお付けなさい、万一湯に行って転んで傷を付けても、お母様の身体へ傷を拵えたのも同じになるから気を付けないといけません、さア、それではお母様御飯を上るように願います」
 と云われ、そこは親子の情《じょう》でございますから、喜代之助夫婦と四人で一と口飲んで食事も済ませ、藤原夫婦も嬉しく思って帰りましたが、これより後《のち》は文治郎は親の慈悲を反故《ほご》にしてはならんと云うので、頓《とん》と他《た》へ出ません。母の側に附き限《き》りで居りまして、母の機嫌を取るばかりでなく、足腰を撫擦《なでさす》り、又は枕元に本を持って参りまして、読んで聞かせたりして、外出《そとで》を致しませんから、また母も心配して、
 母「文治郎、此の頃は久しく外出《そとで》をしないのう」
 文「左様でございます、お母様も私《わたくし》をお案じなすってお外出をなさいませんが、偶《たま》には御遊歩《ごゆうほ》遊ばした方がお身体の為にも宜しゅうございます」
 母「左様さ、今日は幸い天気も好《よ》いからお父様《とっさま》のお墓|詣《まい》りに行《ゆ》きましょう」
 文「へえお供いたしましょう」
 と其の日は墓詣りに行き、今日は観音《かんおん》、明日《あす》は何処《どこ》と遊歩にまいり、帰りにお汁粉でも食べて帰る位でございます。廿五六の壮年《さかりどし》のものがお母《っか》さんの手を曳いて歩き、帰りに達摩汁粉を食って帰って来る者は世間にはありませんが、文治郎は母の云うなり次第になって、五月までは決して一人《いちにん》で外出《そとで》を致しませんでしたが、安永九年に本所|五目《いつゝめ》の羅漢堂《らかんどう》建立《こんりゅう》で栄螺堂《さざえどう》が出来ました。只今では本所の割下水へ引けましたが、其の頃は大《たい》した立派な堂でございました。文治郎|母子《おやこ》も五百羅漢寺へ参詣して帰って参りました。丁度日の暮方《くれがた》、北割下水へ通り掛りますと、向うの岸が黒山のような人立で、剣客者《けんかくしゃ》の内弟子らしい、袴《はかま》をたくしあげ稽古着《けいこぎ》を着て、泡雪《あわゆき》の杓子《しゃくし》を見た様な頭をした者が、大勢で弱い町人を捕《つかま》えて打ち打擲致し、割下水の中へ打込《ぶちこ》んで、踏んだり蹴たりします。彼《か》の町人は口惜《くや》しいから、
 町「殺せ、さア殺して仕舞えあゝ口惜しい」
 と泣声も絶え/″\になりましたが、遠くに立って居ります者も、相手が侍で屋敷の前でございますから、逡巡《あとずさ》りをして唯騒いでいるのみでございます。
 「何《なん》でございます」
 「何ですか分りませんが、向うは大伴《おおとも》蟠龍軒《ばんりゅうけん》と云う剣客者だそうでございます、其の内弟子が町人体《ちょうにんてい》の者を捕まえて打ち打擲しますが、余程悪いことをしたのでしょう」
 「もし彼《あれ》は何《なん》でございます」
 「泥坊で縁の下に隠れていたのだそうです」
 「縁の下から刀と槍《やり》が出たそうです」
 「へー剣術|遣《つか》いの家《うち》へ泥坊が入ったのですか」
 「そうじゃアない、火を放《つ》けたのだそうです、火を放けて燃え上ろうとする処を揉消《もみけ》したんだそうです」
 「火を放けたんですか、物にならなくってお互に好《い》い塩梅《あんばい》でした」
 「なアに妾《めかけ》を盗んだそうです、剣術遣いの妾を町人が盗
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