文「重々相済みません、一応|申聞《もうしき》けた上で存分になる心得でございます、御立腹ではございましょうが少々の間|彼方《あちら》へ、森松やお母様《っかさま》をお連れ申せ」
 森「お母さん、旦那だって馬鹿でも気狂いでもねえから無闇に人を殺す気遣いはねえ、何か云訳があるんでしょうから鳥渡《ちょっと》此方《こっち》へおいでなせえ」
 と無理無体に森松とおかやが手を把《と》って次の間へ連れて参ります。文治は左の手にあった小脇差を右の手に持替えて奥座敷へ入りますから、
 森「旦那え/\」
 文「なんだ、騒々しい」
 森「癇癪《かんしゃく》を起しちゃアいけませんよ、彼奴《あいつ》が抜いたらホカと逃げてお仕舞いなせえ、何《なん》でも逃げるが勝だ、然《そ》うして向《むこう》の気が落著《おちつ》いた処で人を以《もっ》て話をすりゃア、とゞの詰りは金だ/\」
 文「宜しい、黙っていろ」
 と少しも騒がず藤原の前へ出まして、
 文「嘸《さぞ》お待兼ね、只今逐一母から承りました処、重々の御立腹、なれども人様の御家内を手込みに殺すには段々の訳があっての事、貴方に於《おい》ても左様思召すでござろうが、たった一人の御老母とあなたの為に文治郎命を捨てゝ致しました、あなたは毎日田原町へお内職においでになって御存じあるまいが、あなたのお留守中に御家内が御老母を打ち打擲するのみならず、此の程は食《しょく》を上げないことを御承知はあるまいがな」
 喜「黙れ、仮令《たとえ》何様《なによう》なる事があろうとお前方の指図は受けん、悪い事があれば私《わし》の家内だから私《わし》が手打に致そうと捻《ねじ》り首にしようと私《わし》がする、何《なん》で私《わし》に断らんでなすった」
 文「まア/\、それは至極|御尤《ごもっと》もの話で、文治郎も気狂いでないから貴方に断らんでする訳はないが、此の程は御老母にとんと食《しょく》を与えぬので、御老母は餓死なさるより外《ほか》に仕方がない、貴方がお宅へ帰って見れば御老母が食べ過ぎて困ると云って親子の間中《あいなか》を裂くようにするから、御老母は堪えかねて、喜代之助はそれ程ではないが、倶《とも》に私《わし》を酷《ひど》く扱い折檻するゆえ、此の上は死ぬより外はないと仰しゃるのを聞いて、長家中の者がお気の毒に思い、折々《おり/\》食物《たべもの》を進ぜました、今日《こんにち》も納豆売の彦六|爺《おやじ》が握飯《むすび》を御老母に上げて居《お》る処へ、おあさ殿が帰って来て、其の握飯を御老母に投付け、彦六爺に悪口《あっこう》を云い、遂に御老母に皿を投付け、おつむりに疵が出来ました、未《ま》だそれにても飽き足らず御老母を足蹴《あしげ》に致すのを文治郎見ました故に、あゝ怪《け》しからん不孝非道な女と赫《かっ》と致して飛込み、殺す気はなかったが、怒りに乗じ思わず殺す気になったのは私《わし》が殺したのではなく全く天が彼《か》の悪婦の行いを赦《ゆる》さず、文治郎の手を借りて殺させたので、天の然《しか》らしむる事かと存じます」
 喜「黙れ、天が殺したとは何《なん》だ、左様な云いわけで済むか、若《も》し左様な事があったら何ゆえ私《わし》に其の事を忠告致さん、私《わし》も浪人しても大小は挟《たばさ》んで居《お》る、お前の手は借らん」
 文「いや/\あなたには殺せない、何故殺せんと云うに、あなたが殺すなれば三年|連添《つれそ》って居《お》るから疾《とっく》に殺さなければならんに、貴方は欺《だま》されて居《お》るから、私《わし》が其の事を忠告して家《うち》へ帰れば、おあさどのが又|毎《いつ》もの口前《くちまえ》で、それは斯《こ》う云う訳で彼《あ》れは斯う云う訳で文治郎が聞違えたのだ、私はお母《っか》さまに孝行を尽していると旨く云いくるめると、あなたは毎もの如くあゝ左様かと又欺されて殺すことは出来ない、そうすると御老母は餓死致され、仮令《たとえ》手を下さなくも貴方が御老母を殺したと同じことになるから、右京様のお屋敷に聞えても能くない、浪人者の文治郎が身を捨てゝも藤原|母子《おやこ》を助けたいと思って斯様《かよう》に致しました、元より人を殺せば命のないのは承知して居ります、就《つい》ては老体の母を遺《のこ》して死にますから何卒《どうぞ》不愍《ふびん》と思召して目を掛けて下さい、おあさどのゝ悪い事は未だそればかりではない、私に附け文《ぶみ》をした事は貴方は知りますまい、いやさ艶書《えんしょ》を送った事は知りますまいがな」
 喜「何《なん》と仰しゃる」
 文「森松、此の間の文《ふみ》を持って来い」
 森「はい、お前さんの所の御新造を悪く云うのじゃアねえが、私《わっち》に手拭や何かくれて此の間立花屋へ連れて行って、お前さんと別れて寡婦《やもめ》暮しになったら文治郎さんを連れて
前へ 次へ
全81ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三遊亭 円朝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング