し》と見附前で喧嘩を致しましてねえ」
 長「へえ五時《いつゝ》前に癲癇《てんかん》が起りましたえ」
 森「そうじゃアねえ、亥太郎|兄《あにい》と此の旦那と見附前で喧嘩をして、牢|行《ゆき》になったから気の毒だって、爺《とっ》さんお前の所へ此の旦那が見舞《みめえ》に来たのだ」
 長「はあお前さん、何《ど》うも貴方の様に人柄の優しい人と喧嘩をするとは馬鹿な野郎で、大方|食《くれ》え酔《よっ》て居たのでございましょう、子供の時分から喧嘩早《けんかッぱよ》うございまして、番毎《ばんごと》人に疵《きず》を付け、自分も疵だらけになって苦労ばかりさせるが、貴方は能くまア腹立もなく見舞《みめえ》に来て下すって、誠に有難うございます、亥太郎が牢から出れば是非お詫事に連れて出ますから、何うか私《わし》に免じて勘弁しておくんなさい」
 文「何う致しまして、これは心計りですが、亥太郎さんも御気性だから健《すこや》かで速《すみやか》に御出牢になりましょうが、それまでの助けにもなるまいが、真《ほん》の土産のしるしに上げますから、何か温《あったか》い物でも買って喫《あが》って下さい」
 長「これはなんです」
 森「これは亥太郎さんが牢へ行っているから、旦那が見舞に下すったのだ、金が十両あるのだ」
 文「そんなことは云わんでも宜しい」
 森「聾的《つんてき》で分らねえな、お前《めえ》に土産にやるんだよ」
 長「なに十両私に下さるとは何たる慈悲深《なさけぶけ》いお方ですかねえ、亥太郎は交際《つきあい》が広いから牢へ差入れ物をしてくれる人は幾らもありますが、老耄《ろうもう》している親爺《おやじ》の所へ見舞に来て下さる方はありません、本当に貴方はお若いに似合《にあわ》ない親切な方です、暮に差掛《さしかゝ》って忰《せがれ》はいず、何《ど》う為《し》ようかと思っている処へ、十両と纒《まと》まった金を下さるとは有難いことで、御恩の程は忘れません、旦那様|何卒《どうぞ》御勘弁なすって下さい」
 文「なに誠に聊《いさゝ》かですよ」
 長「赤坂へお出《いで》なさるとえ」
 森「聾《つんぼ》だからしょうがねえ、行《ゆ》きましょう/\」
 文「さア帰ろう」
 と森松を連れて宅へ帰りまして、其の年の内にお村と友之助に世帯を持たせなければならんから、諸方を探すと、浅草|駒形《こまかた》に小さい家《うち》だが明家《あきや》がありましたから之《こ》れを借受け、造作をして袋物屋の見世を出しました。袋物屋と云うものは店が小さくても金目の物が置けますから好《い》い商売でございます。友之助は荷を脊負出《しょいだ》して出入先を歩く、宅《うち》にはお村が留守居ながら商売が出来ます。お村が十九で友之助が二十六ですから飯事《まゝごと》暮しをするようでございます。其の年も暮れ、翌年になり、安永九年二月の中旬《なかば》に、文治郎の母が成田山《なりたさん》へ参詣に参りますに就《つ》き、おかやと云う実の姪《めい》と清助《せいすけ》と云う近所の使早間《つかいはやま》をする者を供に連れて出立《しゅったつ》しました。跡には文治郎と森松の両人切《ふたりぎ》りで、男世帯に蛆《うじ》がわくという譬《たとえ》の通り台所なども手廻りませんで、お飯《まんま》を炊くと柔かくってお粥《かゆ》のようなのが出来たり、硬《こわ》くって焦げたのなどが出来たりします。友之助はお村に云い付けて、斯う云う時に御恩を返さなければならん、お前お菜《かず》を拵《こしら》えるのが面倒なら、料理屋から買《かっ》てゞもいゝから毎日何か旦那の所へ持っていってお上げ。と云うので毎日昼頃になると、お村が三組《みつぐみ》の葢物《ふたもの》に色々な物を入れて持って参ります。文治は「お前がそうやって毎日長い橋を渡って持って来るのは気の毒だから来てくれないように」と断っても此方《こちら》は友之助に云い付けられたから、毎日々々雨が降っても風が吹いても吾妻橋を渡って参ります。或日の事文治郎は森松を使《つかい》に出して独りで居りますと、空はどんよりとして、梅も最《も》う散り掛って暖《あった》かい陽気になって来ました。お村の姿《なり》は南部の藍の乱竪縞《らんたつじま》の座敷着[#「着」は底本では「看」と誤記]《ざしきぎ》を平常着《ふだんぎ》に下《おろ》した小袖《こそで》に、翁格子《おきなごうし》と紺繻子《こんじゅす》の腹合せの帯をしめ、髪は達摩返しに結い、散斑[#「斑」は底本では「班」と誤記]《ばらふ》の櫛《くし》に珊瑚珠《さんごじゅ》五分玉《ごぶだま》のついた銀笄《ぎんかん》を挿《さ》し、前垂《まえだれ》がけで、
 村「旦那、今日《こんにち》は遅くなりまして」
 文「また来たか、誠に心にかけて毎度旨い物を持って来てくれて気の毒だ、商売をしていれば嘸《さぞ》忙《せわ》しかろうから
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