もと》の無名擦《むめいす》りあげの銘剣の柄《つか》へ手を掛け、居合腰《いあいごし》になって待って居りましたが、これは何《ど》うしても喧嘩にはなりません。見付の役人が捨《すて》ておきません。馬鹿だか気違いだか盗賊だか分りませんが、飾ってある徳川政府のお道具を持出しては容易ならんから、見附に詰め合せたる役人が、突棒《つくぼう》刺股《さすまた》※[#「※」は「かねへん+「戻」で中に「大」のかわりに「犬」をあてる」、104−2]《もじり》などを持って追掛《おっか》けて来て、折り重り、亥太郎を俯伏《うつぶせ》に倒して縄を掛け、直《すぐ》に見附へ連れて来て調べると、亥太郎の云うには、
亥「私《わっち》が黙って持って往ったら泥坊でしょうが、喧嘩をするのに棒がねえから貸しておくんねえって断って持って往ったから縛られるこたアねえ、天下《てんが》の道具だから貸しても宜《い》いだろう、私《わっち》も天下《てんか》の町人だ」
と云って訳が分らないが、天下の町人と云う廉《かど》で見附から町奉行《まちぶぎょう》へ引渡しになって、別に科《とが》はないが、天下の飾り道具を持出した廉で吟味中|入牢《じゅろう》を申し付けると云うので、暮の廿六日に牢|行《ゆき》になりました。此の事を聞いて文治郎は気の毒に思い、段々様子を聞くに、亥太郎には七十に近い親父《おやじ》があると云う事が分り、義のある男ですから何《ど》うか親父を助けてやりたい、稼人《かせぎにん》が牢へ往《ゆ》き老体の身で殊に病気だと云うから嘸《さぞ》困るだろう、見舞に往ってやろうと懐中へ十両入れて出掛けました。其の頃の十両は大《たい》した金です。森松を供に連れて神田豊島町二丁目へ参り、大坂屋《おおさかや》と云う粉屋《こなや》の裏へ入り、
文「森松こゝらかな」
森「へえこゝでしょう、腰障子に菱左《ひしさ》に「い」の字が小さく角《すみ》の方に書いてあるから」
文「こゝに違いない、手前先へ入れ」
森「御免なさい」
と腰障子を開けると漸《やっ》と畳は五畳ばかり敷いてあって、一間《いっけん》の戸棚《とだな》があって、壁と竈《へッつい》は余り漆喰《じっくい》で繕って、商売手だけに綺麗に磨いてあります。此処《こゝ》に寝ているのが亥太郎の親父《おやじ》長藏《ちょうぞう》と申して年六十七になり、頭は悉皆《すっかり》禿げて、白髪の丁髷《ちょんまげ》で、頭痛がすると見え手拭で鉢巻《はちまき》をしているが、時々|脱《ぬ》け出すのを手ではめるから桶《おけ》のたがを見たようです。
森「御免なせえ」
長「へえお出《いで》なせえ、何《なん》です長屋なら一番奥の方が一軒明いている、彼所《あすこ》は借手《かりて》がねえようだが、それから四軒目の家《うち》が明いているが、些《ちっ》とばかり造作があるよ」
森「なんだ、長屋を借りに来たのだと思ってらア、旦那お上《あが》んねえ」
文「初めてお目に懸りました、貴方《あなた》が亥太郎さんの御尊父さまですか」
長「へえお出《いで》なさい、誠に有難う、御苦労様です、なに大《たい》したことはありませんが、何《ど》うもお寒くなると腰が突張《つっぱっ》ていけません、奥の金《きん》さんが私《わっち》の懇意のお医者様があるから診て貰ったら宜かろうと云ったから、なアにお医者を頼む程じゃアねえと云っておいたが、それで来ておくんなすったのだろう、早速ながら脈を診ておくんなさい」
森「何を云ってるんでえ」
文「医者ではない、お前さんは亥太郎さんの親父《おとっ》さんかえ」
長「へえ、私《わし》は亥太郎の親父《おやじ》です」
文「私《わし》は本所の業平橋にいる浪島文治郎と云う至って粗忽者《そこつもの》、此の後《ご》とも御別懇に願います」
長「なに、そう云う訳ですか、生憎《あいにく》亥太郎が居りませんが、もう蔵は冬塗る方が保《もち》がいゝが、今からじゃア遅い、土が凍りましょう」
森「何を云うのだ、聾《つんぼ》だな…そうじゃアねえ、お前《めえ》さんは左官の亥太郎さんの親父《おとっ》さんかと聞くのだ、此方《こなた》は本所の旦那で浪島文治郎と云うお方だ」
長「なに、江島《えじま》の天神さまがどうしたと」
森「分らねえ爺《と》っさんだ、旦那が声が小せいから尚お分らねえのだ、最《もっ》と大きな声でお話なせえ」
文「私《わし》は本所業平橋の浪島文治郎と申すものです」
長「はア、本所業平橋の浪島文治郎と仰《おっし》ゃるのか、亥太郎の親父《おやじ》長藏と申します、お心|易《やす》く」
文「此の度《たび》は誠にお前さんにお気の毒で」
長「なアに此の度ばかりじゃアない、これは時々起るので、腰が差込んでいけません」
森「そうじゃアねえ、旦那がお前に近付《ちかづき》に来たのだよ」
文「亥太郎さんと私《わ
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