》は背きませんが、一々|斯《こ》うしろ彼《あ》ア致せと御意遊ばせば、届かぬながらも心に掛けて何ごとでも致し、お母様《っかさま》にも御孝行を尽します、どうか身寄り頼りのない不憫の者と思召して、旦那さまお情を掛けて下さるようお見捨なさらぬように」
とポロリと溢《こぼ》す一《ひ》と雫《しずく》、文治郎はこれを見て、あゝ嫁に来た晩に荒々しい身なりをして出て行《ゆ》くのを見れば驚くであろうと思いましたけれども、癇癖が高ぶって居りますから気を取直《とりなお》して、
文「夫婦は其の初見《しょけん》に在りと、初見参《しょけんざん》の折《おり》に確《しか》と申し聞ける事は、私《わし》より母の機嫌を取り能く勤めてくれんではならぬ、又人間は老少不定《ろうしょうふじょう》ということがある、明日にも親に先立ち私《わし》が死ぬまい者でもない、其の折は私《わし》になり代って母に孝行を尽してくれられるだろう、亭主が死んで姑《しゅうと》の機嫌を取るのがいやだと云って此の家を出る志はあるまい、念のため夫婦の道じゃに依《よ》って教え置きます」
町「それは御意遊ばすまでもございません、貴方はそんなことはございますまいが、お母《っか》さまの御機嫌を取り、御介抱を致しますのは私《わたくし》の役でございまするで、決して粗略には致しません」
文「はい、私《わし》は性質癇癖持ちで、詰らぬことに怒りを生じて打ち打擲することがある、弱い女や子供を打擲することは嫌いだが、意に逆らうと癇癖に障ります、決して逆らってくれまい」
町「どう致しまして、お辞《ことば》は背きません」
文「それは辱《かたじ》けない、それでは申し聞けるが、文治郎今晩これから直ぐに出て行《ゆ》きます、今晩はお前が嫁に来たばかりだから留《とゞま》りたいが、出て行《ゆ》かなければならぬ、私《わし》が出て往った後《あと》で、お母様《っかさま》がお目が覚めて文治郎はとお問い遊ばした時、文治郎は能く眠り付いて居ります、御用なれば私《わたくし》へ仰せ聞けられて下さいと云って、お前が引受けてくれぬでは困る」
町「何処《どこ》へお出《いで》になります、何時《いつ》お帰りになります」
文「帰りは明方《あけがた》でございます、若し是非ない訳で帰れんければ四五十年は帰れぬ、たった一人の大切のお母様《っかさま》、私《わし》になり代って孝行を尽してくれぬでは困る」
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