、額《ひたい》から腮《あご》へかけて膏汗《あぶらあせ》を流し、一生懸命一心不乱に雨宝陀羅尼経《うほうだらにきょう》を読誦して居ると、駒下駄の音が生垣《いけがき》の元でぱったり止《や》みましたから、新三郎は止《よ》せばいゝに念仏を唱えながら蚊帳を出て、そっと戸の節穴から覗《のぞ》いて見ると、いつもの通り牡丹の花の灯籠を下げて米が先へ立ち、後《あと》には髪を文金の高髷《たかまげ》に結い上げ、秋草色染《あきくさいろぞめ》の振袖《ふりそで》に燃えるような緋縮緬《ひぢりめん》の長襦袢《ながじゅばん》、其の綺麗なこと云うばかりもなく、綺麗ほど猶《なお》怖く、これが幽霊かと思えば、萩原は此の世からなる焦熱地獄《しょうねつじごく》に落ちたる苦しみです、萩原の家《うち》は四方八方にお札が貼ってあるので、二人の幽霊が憶《おく》して後《あと》へ下《さが》り、
米「嬢さまとても入れません、萩原さんはお心変りが遊ばしまして、昨晩のお言葉と違い、貴方《あなた》を入れないように戸締りがつきましたから、迚《とて》も入ることは出来ませんからお諦め遊ばしませ、心の変った男は迚も入れる気遣《きづか》いはありません、心の腐った男はお諦めあそばせ」
 と慰むれば、
嬢「あれ程迄にお約束をしたのに、今夜に限り戸締りをするのは、男の心と秋の空、変り果てたる萩原様のお心が情《なさけ》ない、米や、どうぞ萩原様に逢わせておくれ、逢わせてくれなければ私は帰らないよ」
 と振袖を顔に当て、潜々《さめ/″\》と泣く様子は、美しくもあり又|物凄《ものすご》くもなるから、新三郎は何も云わず、只《た》だ南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏。
米「お嬢様、あなたが是程までに慕うのに、萩原様にゃアあんまりなお方ではございませんか、若《も》しや裏口から這入《はい》れないものでもありますまい、入らっしゃい」
 と手を取って裏口へ廻ったが矢張《やっぱり》這入られません。

        九

 飯島の家《うち》では妾のお國が、孝助を追出すか、しくじらするように種々《いろ/\》工夫を凝《こら》し、この事ばかり寝ても覚めても考えている、悪い奴だ。殿様は翌日|御番《ごばん》でお出向《でむき》に成った後《あと》へ、隣家《となり》の源次郎がお早うと云いながらやって来ましたから、お國はしらばっくれて、
國「おや、いらっしゃいまし、引続きまして残暑が強く皆様御機嫌よろしゅう、此方《こちら》は風がよく入りますからいらっしゃいまし」
 源次郎は小声になり、
「孝助は昨夜《ゆうべ》の事を喋《しゃべ》りはしないかえ」
國「いえサ、孝助が屹度《きっと》告口《つげぐち》をしますだろうと思いましたに、告口をしませんで、殿様に屋根瓦が落ちて頭へ当り怪我をしたと云ってね、其の時|私《わたくし》は弓の折《おれ》で打《ぶ》たれたと云わなければよいと胸が悸動《どき/\》しましたが、あの事は何《なん》とも云いませんが、云わずにいるだけ訝《おか》しいではありませんか」
 と小声で云って、態《わざ》と大声で、
國「お熱い事この節のように熱くっては仕方がありません」
 又小声になり。
國「いえ、それに水道端の相川新五兵衞様の一人娘のお徳様が、宅《うち》の草履取の孝助に恋煩いをしているとサ、まア本当に茶人《ちゃじん》も有ったものですねえ、馬鹿なお嬢様だよ、それからあの相川の爺さんが汗をだく/\流しながら、殿様に願って孝助をくれろと頼むと、殿様も贔屓《ひいき》の孝助だから上げましょうと相談が出来まして、相川は帰りましたのですよ、そうして、今日は相川で結納の取交《とりかわ》せになるのですとさ」
源「それじゃア宜《よろ》しい、孝助が往《い》って仕舞えば仔細《しさい》はない」
國「いえサ、水道端の相川へ養子にやるのに、宅《うち》の殿様がお里に成《た》って遣《や》るのだからいけませんよ、そうすると、彼奴《あいつ》が此の家《うち》の息子の風《ふう》をしましょう、草履取でさえ随分ツンケンした奴だから、そうなれば屹度《きっと》この間の意趣《いしゅ》を返すに違いはありません、何《なん》でも彼奴が一件を立聞《たちぎき》したに違いないから、貴方《あなた》何《ど》うかして孝助|奴《め》を殺して下さい」
源「彼奴は剣術が出来るから己《おれ》には殺せないよ」
國「貴方は何故《なぜ》そう剣術がお下手だろうねえ」
源「いゝや、それには旨い事がある、相川のお嬢には宅《うち》の相助《あいすけ》という若党が大層に惚れて居るから、彼《あれ》を旨く欺《だまか》し、孝助と喧嘩をさせて置き、後《あと》で喧嘩両成敗だから、己《おい》らの方で相助を追い出せば、伯父さんも義理で孝助を出すに違いないが、就《つ》いちゃア明日《あした》伯父|様《さん》と一緒に帰って来ては困るが、孝助が独《ひと
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