付けるなどとは不忠者め、是が一人前《ひとりまえ》の侍なれば再び門を跨《また》いで邸《やしき》へ帰る事は出来ぬぞ」
孝「喧嘩を致したのではありません、お使い先で宮邊《みやべ》様の長家下《ながやした》を通りますと、屋根から瓦《かわら》が落ちて額に中《あた》り、斯様《かよう》に怪我《けが》を致しました、悪い瓦でございます、お目障《めざわ》りに成って誠に恐入《おそれい》ります」
飯「屋根瓦の傷ではない様だ、まアどうでもいゝが、併《しか》し必ず喧嘩などをして疵を受けてはならんぞ、手前は真直《まっすぐ》な気性だが、向うが曲って来れば真直に行《ゆ》く事は出来まい、それだから其処《そこ》を避《よ》けて通るようにすると広い所へ出られるものだ、何《なん》でも堪忍《かんにん》をしなければいけんぞ、堪忍の忍《にん》の字は刃《やいば》の下に心を書く、一ツ動けばむねを斬るごとく何でも我慢《がまん》が肝心《かんじん》だぞよ、奉公するからは主君へ上げ置いた身体、主人へ上げると心得て忠義を尽《つく》すのだ、決して軽挙《かるはずみ》の事をするな、曲った奴には逆《さから》うなよ」
 という意見が一々胸に堪《こた》えて、孝助は唯《たゞ》へい/\有難うございますと泣々《なく/\》、
孝「殿様来月四日に中川へ釣《つり》に入《いら》っしゃると承わりましたが、此の間《あいだ》お嬢様がお亡くなり遊ばして間《ま》もない事でございますから、何《ど》うか釣をお止《や》め下さいますように、若《も》しもお怪我があってはいけませんから」
飯「釣が悪ければやめようよ、決して心配するな、今云った通り相川へ行ってやれよ」
孝「何方《どちら》へかお使《つかい》に参りますのですか」
飯「使《つかい》じゃアない、相川の娘が手前を見染めたから養子に行って遣《や》れ」
孝「へえ成程、相川様へどなたが御養子になりますのです」
飯「なアに手前が往《ゆ》くのだ」
孝「私《わたくし》はいやでございます」
飯「べらぼうな奴だ手前の身の出世になる事だ、是ほど結構な事はあるまい」
孝「私《わたくし》は何時《いつ》までも殿様の側に生涯へばり附いております、ふつゝかながら片時《へんじ》も殿さまのお側を放さずお置き下さい」
飯「そんな事を云っては困るよ、己《おれ》がもう請《う》けをした、金打《きんちょう》をしたから仕方がない」
孝「金打をなすッてもいけません」
飯「それじゃア己が相川に済まんから腹を切らんければならん」
孝「腹を切っても構いません」
飯「主人の言葉を背《そむ》くならば永《なが》の暇《いとま》を出すぞ」
孝「お暇に成っては何《なん》にもならん、そういう訳でございますならば、ちょっと一言《ひとこと》ぐらい斯《こ》う云う訳だと私《わたくし》にお話し下さっても宜《よろ》しいのに」
飯「それは己が悪かった、此の通り板の間へ手を突いて謝《あやま》るから行ってやれ」
孝「そう仰しゃるなら仕方がありませんから取極《とりき》めだけして置いて、身体は十年が間《あいだ》参りますまい」
飯「そんな事が出来るものか、翌日《あす》結納を取交《とりか》わす積りだ、向うでも来月初旬に婚礼を致す積りだ」
 との事を聞いて孝助の考えまするに、己が養子にゆけば、お國と源次郎と両人で殿様を殺すに違いないから、今夜にも両人を槍《やり》で突殺《つきころ》し、其の場で己も腹|掻切《かきゝ》って死のうか、そうすれば是が御主人様の顔の見納め、と思えば顔色《がんしょく》も青くなり、主人の顔を見て涙を流せば、
飯「解らん奴だな、相川へ参るのはそんなに厭《いや》か、相川はつい鼻の先の水道端だから毎日でも往来《ゆきき》の出来る所、何も気遣《きづか》う事はない、手前は気強いようでもよく泣くなア、男子《おとこ》たるべきものがそんな意気地《いくじ》がない魂ではいかんぞ」
孝「殿様|私《わたくし》は御当家様へ三月五日に御奉公に参りましたが、外《ほか》に兄弟も親もない奴だと仰しゃって目を掛けて下さる、其の御恩の程は私は死んでも忘れは致しませんが、殿様はお酒を召上ると正体なく御寝《げし》なさる、又召上らなければ御寝なられません故、少し上《あが》って下さい、余りよく御寝なると、どんな英雄でも、随分悪者の為に如何《いか》なる目に逢うかも知れません、殿様決して御油断はなりません、私はそれが心配でなりません、それから藤田様から参りましたお薬は、どうか隔日《いちにちおき》に召上って下さい」
飯「なんだナ、遠国《えんごく》へでも行《ゆ》くような事を云って、そんな事は云わんでもいゝわ」

        八

 萩原の家《うち》で女の声がするから、伴藏が覗《のぞ》いて恟《びっく》りし、ぞっと足元から総毛立《そうけだ》ちまして、物をも云わず勇齋の所へ駆込《かけこ》もうとしましたが、怖いから先
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