い衆《しう》がどれと云《い》つて行《い》つて見ると、どうも先刻《さつき》店《みせ》へ来《き》て、番頭《ばんとう》さんと争《あらそ》ひをして突出《つきだ》された田舎者《ゐなかもの》に似《に》てゐますといふから、どれと云《い》つて番頭《ばんとう》が行《い》つて見ると、成程《なるほど》先刻《さつき》店《みせ》へ来《き》た田舎者《ゐなかもの》の土左衛門《どざゑもん》だから、悪人《あくにん》ながらも宜《よ》い心持《こゝろもち》はしない、身《み》の毛《け》慄立《よだ》つたが、土左衛門《どざゑもん》突出《つきだ》してしまへと云《い》ふので、仕事師《しごとし》が手鍵《てかぎ》を持《も》つて来《き》たり、転子《かるこ》が長棹《ながさを》を持《も》つて来《き》たりして突出《つきだ》すと、また其《そ》の桟橋《さんばし》へ戻《もど》つて来《く》る、幾《いく》ら突放《つツぱな》しても戻《もど》つて来《く》るから、そんなこつてはいけないと云《い》ふので、三|人掛《にんかゝ》つて漸《やうや》く突出《つきだ》したところが、桟橋《さんばし》で車力《しやりき》が二人《ふたり》即死《そくし》してしまひ、仕事師《しごとし》が一人《ひとり》気《き》が違《ちが》つてしまつたと云《い》ふ騒《さわ》ぎ。それから其《そ》れが祟《たゝ》りはしないか/\といふ気病《きや》みで、今《いま》いふ神経病《しんけいびやう》とか何《なん》とか云《い》ふのだらうが、二代目はそれを気病《きや》みにして遂《つひ》に気《き》が違《ちが》つた。それから三代目が嫁《よめ》を貰《もら》つたのは、名前は忘れたが、何《なん》でもお旗本《はたもと》のお嬢様《ぢやうさま》とか何《なん》とかいふことだつた。お旗本《はたもと》のお嬢様《ぢやうさま》が嫁《よめ》に来《く》るやうな身代《しんだい》になつたのだから、たいした身代《しんだい》になつた。すると此《こ》の嫁《よめ》を姉《あね》と番頭《ばんとう》とで虐《いぢ》めたので、嫁《よめ》は辛《つら》くて居《ゐ》られないから、実家《さと》へ帰《かへ》ると、親父《おやぢ》は昔気質《むかしかたぎ》の武士《ぶし》だから、なか/\肯《き》かない、去《さ》られて来《く》るやうな者は手打《てうち》にしてしまふ、仮令《たとひ》どんな事があらうとも、女《をんな》は其《そ》の嫁《か》した家《いへ》を本当《ほんたう》の家《いへ》としなければならぬと云《い》ふことを云《い》ひ聞かして帰《かへ》されたから、途方《とはう》にくれて其《そ》の嫁《よめ》が塩原《しほばら》の内井戸《うちゐど》へ飛込《とびこ》んで幽霊《いうれい》に出るといふのが潰《つぶ》れ初《はじ》めで、あの大きな家《うち》が潰《つぶ》れてしまつたが、何《なん》とこれは面白《おもしろ》い怪談《くわいだん》だらう」といふ話を聞いて、成程《なるほど》これは面白《おもしろ》い話だ、これを種子《たね》にして面白《おもしろ》い話をこしらへたいと思つたが、其《そ》の塩原多助《しほばらたすけ》といふ者が本所相生町《ほんじよあひおひちやう》に居《ゐ》たか居《ゐ》ないか、名《な》さへ始めて聞いた位《くらゐ》だから分《わか》らない。兎《と》に角《かく》本所《ほんじよ》へ行《い》つて探して見ようと思つて、是真翁《ぜしんをう》の家《いへ》を暇乞《いとまごひ》して是《これ》から直《す》ぐに本所《ほんじよ》へ行《ゆ》きました。
さて是真翁《ぜしんをう》の宅《たく》を暇乞《いとまごひ》して、直《すぐ》に本所《ほんじよ》へ行《い》つて、少し懇意《こんい》の人があつたから段々《だん/\》聞いて見ると、二《ふた》つ目《め》の橋の側《そば》に金物屋《かなものや》さんが有《あ》るから、そこへ行《い》つて聞いたら分《わか》るだらうと云《い》ふ。それから其《そ》の金物屋《かなものや》さんで、名前は云《い》へないが、是々《これ/\》の炭屋《すみや》が有《あ》りましたかと聞くと、成程《なるほど》塩原多助《しほばらたすけ》といふ炭屋《すみや》があつたさうだが、それは余程《よほど》古いことだといふ。それでは塩原《しほばら》のことを委《くは》しく知つてゐる人がありませうかと云《い》つて聞いたところが、無《な》いといふ。何処《どこ》を捜《さが》しても分《わか》らない。其時《そのとき》六十九になる、仕事師《しごとし》の頭《かしら》といふほどではないが、世話番《せわばん》ぐらゐの人に聞くと、私《わたし》は塩原《しほばら》の家《いへ》へ出入《でいり》をしてゐたが、細《こま》かいことは知りませぬといふ。それでは塩原《しほばら》の寺《てら》は何処《どこ》でせうと聞いたところが、浅草《あさくさ》の森下《もりした》の――たしか東陽寺《とうやうじ》といふ禅宗寺《ぜんしうでら》だといふことでございますといふ。それから直《すぐ》に本所《ほんじよ》を出て吾妻橋《あづまばし》を渡つて、森下《もりした》へ行《い》つて捜《さが》すと、今《いま》の八|軒寺町《けんでらまち》に曹洞宗《さうどうしう》の東陽寺《とうやうじ》といふ寺《てら》があつた。門の所で車から下《お》りてズツと這入《はい》ると、玄関《げんくわん》の襖紙《からかみ》に円《まる》に十の字《じ》の標《しるし》が付《つ》いてゐる。はてな、これは薩摩様《さつまさま》のお寺《てら》ではないかと思ひました。門番《もんばん》の処《ところ》で花を買つて十|銭《せん》散財《さんざい》して、お墓《はか》を掃除《さうぢ》して下さい、塩原多助《しほばらたすけ》の墓《はか》は此方《こちら》でございませうか、私《わたし》は塩原《しほばら》の縁類《えんるゐ》の者でございますが、始めてまゐつたので墓《はか》は知りませぬから、案内して下さいと云《い》ふと、「へい畏《かしこま》りました」と云《い》つて墓《はか》へ案内して掃除《さうぢ》してくれましたから、墓《はか》の前に向《むか》つて私《わたし》は縁類《えんるゐ》でも何《なん》でもないが、先祖代々《せんぞだい/\》と囘向《ゑかう》をしながら、只見《とみ》ると、墓石《はかいし》を取巻《とりま》いて戒名《かいみやう》が彫《ほ》つてある。第《だい》一に塩原多助《しほばらたすけ》と深く彫《ほ》つてある。石塔《せきたふ》の裏《うら》には新らしい塔婆《たふば》が立つてゐて、それに梅廼屋《うめのや》と書いてある。どういふ訳《わけ》で梅廼屋《うめのや》が塔婆《たふば》を上《あ》げたか、不審《ふしん》に思ひながら、矢立《やたて》と紙入《かみいれ》の鼻紙《はながみ》を取出《とりだ》して、戒名《かいみやう》や俗名《ぞくみやう》を皆《みな》写《うつ》しましたが、年号月日《ねんがうぐわつぴ》が判然《はつきり》分《わか》りませぬから、寺《てら》の玄関《げんくわん》へ掛《かゝ》つて、「お頼《たの》み申《まう》します」といふと、小坊主《こばうず》が出て取次《とりつ》ぎますから、「私《わたし》は本所相生町《ほんじよあひおひちやう》二|丁目《ちやうめ》の塩原多助《しほばらたすけ》の縁類《えんるゐ》のものでございますが、まだ塩原《しほばら》の墓《はか》も知らず、唯《たゞ》塩原《しほばら》のお寺《てら》は此方《こちら》だといふことを聞伝《きゝつた》へて、今日《こんにち》お墓参《はかまゐ》りにまゐりました、これはほんの心ばかりでございますが、どうか先代多助《せんだいたすけ》の御囘向《ごゑかう》を願ひたいものでございます」と云《い》つて金《かね》を一|円《ゑん》包《つゝ》んで出すと、奥《おく》から和尚様《をしやうさま》が出て来《き》まして、「あなたが塩原多助《しほばらたすけ》の御縁類《ごえんるゐ》の方《かた》でございますか、愚僧《ぐそう》が当住《たうぢう》で……只今《たゞいま》御囘向《ごゑかう》を……」「いえ、今日《こんにち》は拠《よんどころ》ないことで急ぎますから、御囘向《ごゑかう》は後《あと》でなすつて下さい……塔婆《たふば》をお立てなすつて、どうぞ御囘向《ごゑかう》を願ひます」「畏《かしこま》りました」と茶を入れて金米糖《こんぺいたう》か何《なに》かを出します。すると和尚《をしやう》さんの手許《てもと》に長谷川町《はせがはちやう》の待合《まちあひ》の梅廼屋《うめのや》の団扇《うちは》が二|本《ほん》有《あ》りますから、はてな此寺《このてら》に梅廼屋《うめのや》の団扇《うちは》のあるのは何《ど》ういふ訳《わけ》か、殊《こと》に塩原《しほばら》の墓《はか》にも梅廼屋《うめのや》の塔婆《たふば》が立つて居《を》りましたから、何《なに》か訳《わけ》のあることゝ思つて、「和尚《をしやう》さん、こゝにある団扇《うちは》は長川谷町《はせがはちやう》の待合《まちあひ》の梅廼屋《うめのや》の団扇《うちは》ですか」「左様《さやう》です」「梅廼屋《うめのや》は此方《こちら》の檀家《だんか》でございますか」「いえ檀家《だんか》といふ訳《わけ》ではありませぬが、長《なが》い間《あひだ》塩原《しほばら》の附届《つけとゞけ》をしてゐる人は梅廼屋《うめのや》ほかありませぬ、それで此《こ》の団扇《うちは》があるのです」「それは何《ど》ういふ訳《わけ》です」と聞くと、梅廼屋《うめのや》は五|代目《だいめ》の塩原多助《しほばらたすけ》の女房《にようばう》で、それが亭主《ていしゆ》が亡《なくな》つてから、長谷川町《はせがはちやう》へ梅廼屋《うめのや》といふ待合《まちあひ》を出したのです」「へえーさうでございますか」それぢやア梅廼屋《うめのや》のお母《ふくろ》に聞けば塩原《しほばら》の事は委《くは》しく分《わか》る。梅廼屋《うめのや》に聞くのは造作《ざうさ》もない事だ。といふのは梅廼屋《うめのや》は落語社会《らくごしやくわい》の寄合茶屋《よりあひぢやや》でございますから……「有難《ありがた》うございます、どうか御囘向《ごゑかう》を願ひます、又《また》参詣《おまゐり》を致《いた》します」と云《い》つて、それから直《すぐ》に浜町《はまちやう》一|丁目《ちやうめ》の花屋敷《はなやしき》の相鉄《あひてつ》といふ料理屋《ちやや》へ行《い》つて、お膳《ぜん》を誂《あつら》へ、家《うち》の車をやつて、此《こ》の車で直《すぐ》に来《き》てくれと云《い》つて梅廼屋《うめのや》を迎《むか》へにやりました。
梅廼屋《うめのや》は前にも申《まう》しました通《とほ》り、落語家《らくごか》一|統《とう》の寄合茶屋《よりあひぢやや》で、殊《こと》に当時《たうじ》私《わたくし》は落語家《らくごか》の頭取《とうどり》をして居《を》りましたから、為《ため》になるお客と思ひもしまいが、早速《さつそく》其車《そのくるま》で来《き》てくれました。「何《ど》うしたんです、何《なに》か急《きふ》の御用《ごよう》ですか」「いや、改《あらた》まつてお聞き申《まう》したいのだが、お前《まへ》は塩原《しほばら》といふ炭問屋《すみどんや》へ嫁《よめ》になつた事が有《あ》るさうだ」「いゝえ、炭問屋《すみどんや》は疾《と》うに潰《つぶ》れて、お厩橋《うまやばし》へ来《き》た時|私《わたくし》が縁付《えんづ》いたのです」「お前《まへ》の御亭主《ごていしゆ》は」「秀《ひで》三|郎《らう》と云《い》つて五代目でございます」「早く死んだのかえ」「へえ、少し気《き》が違《ちが》つて早く死にました」と云《い》ふから、成程《なるほど》是真翁《ぜしんをう》の話の通《とほ》り祟《たゝ》つたのだなと思ひ当《あた》りました。「お前《まへ》さんの所に何《なに》か書物《かきもの》はありませぬかえ――御先祖《ごせんぞ》塩原多助《しほばらたすけ》の書類《しよるゐ》か何《なに》か残《のこ》つてゐませぬか」「何《なに》も有《あ》りませぬ、少しは残《のこ》つてゐた物も有《あ》りましたが、此前《このまへ》の火事で焼《や》けましたから、書付類《かきつけるゐ》はありませぬが、御先祖様《ごせんぞさま》の着た黒羽二重《くろはぶたへ》に大きな轡《くつわ》の紋《もん》の附《つ》いた着物が一枚あります。それは二
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