能《よ》くお前の胸に落ち入ったかい、何も是《こ》れという越度《おちど》の無いお前に暇を出すといったら、如何《いか》にも酷《ひど》い主人のようにお思いかも知らないが、これはお前の為だよ、お前も小さい時分にいたから、何だか私も子のような心持がして誠に可愛《かわゆ》く思うが、何分世間の口が面倒だから暇を出すのだけれども、又縁があれば一旦|主従《しゅうじゅう》となったのだもの、出入の出来ないことは無いから、まあ/\気を長く、兄《あに》さんの処におとなしくしているが好い、軽はずみな心を出して、こんな淋しいお寺なんぞにいられるものかって、ふいと何処《どこ》かへ姿を隠すような事でもあられると、どんなに案じられるか知れないから、ようく心を落着けて時節を待ってゝ呉れなくちゃア私が困るよ」
粂「ヘエ、有難うございます、誠に何うも面目次第もございませぬ」
内儀「さ、早く行くが好い、何時までも此処《こゝ》にいると面倒だから、谷中のお寺へ行ったら能く兄さんのいう事を聴いて、身体を大事にして時節の来るのを待っていなよ」
粂「ヘエ有難う存じます」
と袂《たもと》から手拭《てぬぐい》を取出し、涙を拭いながら店へ出て来ると、番頭は粂之助が暇《いとま》になって好い気味だと喜んで居る。
粂「えゝ、番頭さん、私は唯今お暇《いとま》になりまして谷中の兄の方へ参りますから、何分お店の事をよろしく願います」
番頭「左様じゃげな、根《ねっ》から些《ちっ》とも知らんかったが、何う云う理由《わけ》で粂之助がお暇になりますかと云うて、私《わし》も色々言葉を尽してお詫をしたが、なか/\お聴き容《い》れがない、お前方が知った事《こっ》ちゃない、此様《こない》に云われるで何うにも仕ようがないじゃて、併《しか》し何うも気の毒な事《こっ》ちゃな、根《ねっ》から、全体|商人《あきんど》はお前の性分に合わぬのじゃから、却《かえっ》て谷中のお寺へ行《ゆ》きなはった方が心が沈着《おちつ》いて宜《い》いやろう」
粂「ヘエ有難う、何うも長々お世話さまでございました、お店の方も段々忙しくなりますから、人が殖《ふ》えなければならぬ処を少なくなるんですから、何分|宜《よろ》しくお頼み申します、あの定吉《さだきち》どんは何処《どっ》かへ行《ゆ》きましたか」
番頭「いや今|其処《そこ》に居ったッけ、定吉イ定吉」
定「おや粂どん、今お前さんを探しに表へ出ましたが、貴方《あなた》はお暇《ひま》になりましたてえから、何ういう理由《わけ》だろうと聞いても解らないんですが、本当に何うもお気の毒さまで」
粂「お前と私とは別段仲が好《よ》かったから、お前に別れるのは誠に辛いけれども、拠《よんどころ》ない事があってお暇になったのだが、私が居なくなると番頭さんに無理な小言をいわれても、誰も詫びてくれるものがないから、お前も能く気を附けて叱られないように御奉公を大事にするんだよ」
定「ヘエ有難う、お前さんが下《さが》るくらいなら私も下った方がようございます、幾ら私がいる気でも、外《ほか》の者は、みんな意地が悪くって居られませぬもの、其《そ》ん中でも、新次郎《しんじろう》どんなどは、しんねりむっつりの嫌な人で、私が寝てえると焼芋の皮なんぞを態《わざ》と置いて、そうしてお内儀さんが朝|暖簾《のれん》の処《とこ》から顔を出して、さ、皆《みんな》起きなよと仰しゃる時に新どんの意地悪が、あの昨晩定吉が寝ながら焼芋を食べましたなんて嘘ばかり吐《つ》いて人を叱らせるんですもの、そうすると番頭さんが私の尻を捲《まく》って、定規板でピシャ/\撲《なぐ》るんですもの、痛くて堪《たま》りゃアしませんや、此間《こないだ》も宿下《やどお》りの時お母《っか》さんにそういったんです、お内儀さんもお嬢さんも粂どんも皆《みんな》善《い》い方だけれども、ほかの者は残らず意地が悪くって辛抱が出来ないてえと、そんな事をいうものじゃアない、それが身の修行《しゅうぎょう》だから、我慢をしなくっちゃアいけないと云われますから、粂どんがおいでなさる間は辛抱が出来る、粂どんは大層私を可愛がっておくんなすって、何かおいしい物があると、お蔵の棚へ内証《ないしょう》で取っといておくんなすって、ちょいと出し物があるから蔵まで一緒に行っておくれって連れてって、さ、お食べってカステラ巻だの何《なん》だのを食べさせて下すったり、お小遣をおくんなすったりして、本当に優しくして下さるよと然《そ》ういったら、母親《おふくろ》が涙ぐんで、あゝ有難いことだ、そういうお方が在《い》らっしゃるのはお前が奉公の出来る瑞相《ずいそう》だから、何でもその方をしくじらないように為《し》なくっちゃア可《い》けない、その方の御機嫌を損ねるとお店にはいられないから、どんな無理なことを仰しゃってもいう事を聴くんだよといいました」
粂「早く彼方《あっち》へお出で、何時までも此処《こゝ》にいると又叱られるから」
定「ヘエ、今行きます」
粂「清助《せいすけ》どんは何うしたえ」
定「今物置に薪《まき》を積直して居ましたっけ」
粂「ちょいと清助どんにも暇乞《いとまごい》をして行こう」
定「じゃア私も一緒に行きましょう」
粂「清助どん、何うも長々お世話になりました」
清「おゝ粂どんか、今ね己《おれ》が聞いたんだ、おさきどんがの話に、今日急に粂どんがお暇《いとま》になったてえから、己ハアほんとうに魂消《たまげ》ただ、何でもこれは番頭野郎の策略に違《ちげ》えねえ、彼奴《あいつ》は厭に意地が悪くって、何かお前様《めえさま》を追出させるように巧《たく》んだに違え無《ね》えだ、本当にあのくれえ憎らしい野郎も無えもんだ、ちょいと何一つくれるんでもお前《めえ》さんと番頭とではこう違うだ、こんな物は己《おら》ア嫌《きれ》えだ、お前《めえ》も嫌えかも知れねえが喰うなら喰ってくんろ、勿体ねえからってお前《めえ》さんは旨《うめ》え物をくれるだが、番頭野郎は自分がそれ程に好かねえもんでも惜しがってくれやアがるだ、此間《こねえだ》も他処《よそ》から法事の饅頭が来た時、お店へも出ると彼奴は酒呑だから甘《あめ》え物は嫌えだろう、それだのにさ、清助|汝《われ》がに饅頭をくれてやる、田舎者だから此様《こん》な結構な物は食ったことは有るめえ、汝がのような奴に惜しいもんだけんど、汝がに食わすと、斯《こ》う吐《ぬか》しやがるだ、己も余《あんま》り腹が立ったから、何うかして意趣返《いしゅげえ》しをしてやろうと思って、此間《こねえだ》鹿角菜《ひじき》と油揚《あぶらげ》のお菜《さい》の時に、お椀の中へそっと草鞋虫《わらじむし》を入れて食わせてやっただ、そんな事は何うでも好《い》いが、お前《めえ》さんがお暇《いとま》になるなら何《な》んにも楽《たのし》みが無《ね》えから己《おら》も下《さが》ろうか知ら、下らば直《すぐ》に故郷《くに》へ帰《けえ》るだよ、己《おれ》は信州|飯山《いいやま》の在《ぜえ》でごぜえますから、めったに来る事もあるめえが、善光寺へ参詣にでも来ることが有ったら是非寄って下せえまし、田舎の事《こッ》たから、何も外に御馳走の仕ようが無《ね》えから、鹿でも打《ぶ》って御馳走しべいから、何だか馴染の人に別れるのは辛《つれ》えもんだね、何《ど》うかまア成るたけ煩らわねえように気い付けて、好《よ》いかね」
粂「有難う」
娘のお梅に逢いたいは山々だが、お内儀さんのお言葉添えもあるから、その儘|暇《いとま》を取って、これから谷中の長安寺へ参り、いまに好《い》い便りがあるだろうと待って居りました。此方《こちら》はお梅、あれきり何の便りもないが、もしや粂之助の了簡が変りはしないかと、娘心にいろ/\と思い計り、耐《こら》え兼ねたものか、ある夜《よ》二歩金《にぶきん》で五十両ほどを窃《ぬす》み出して懐中いたし、お高祖頭巾《こそずきん》を被《かむ》り、庭下駄を履いたなりで家を抜け出し、上野の三橋《さんはし》の側まで来ると、夜明《よあか》しの茶飯屋が出ていたから、お梅はそれへ来て、
梅「御免なさいまし」
爺「ヘエおいでなさいまし、此方《こちら》へお掛けなさいまして」
梅「はい、あの谷中の方へは何う参ったら宜《よろ》しゅうございましょう」
爺「えゝ谷中は何方《どちら》までお出でなさるんですい」
梅「あの長安寺と申す寺でございますがね」
爺「えゝ仰願寺[#「仰願寺」に欄外に校注、「小さき一種のろうそく江戸山谷の仰願寺にて用いはじめしより云う」]《こうがんじ》をくれろと仰しゃるんですか、えへゝ仰願寺なら蝋燭屋《ろうそくや》へお出《いで》なさらないじゃアございませぬよ」
梅「いえあのお寺でございますがね」
爺「何《なん》ですいお螻《けら》の虫ですと」
梅「いゝえ長安寺というお寺へ参るのでございますが」
すると小暗い所にいた一人の男が口を出して、
男「えゝ、もし/\お嬢さん、その長安寺というのは私《わっち》が能く知ってますよ」
と云いながらずっと出た男の姿《なり》を見ると、紋羽《もんぱ》の綿頭巾を被《かむ》り、裾短《すそみじか》な筒袖《つゝそで》を着《ちゃく》し、白木《しろき》の二重廻《ふたえまわ》りの三尺《さんじゃく》を締め、盲縞《めくらじま》の股引腹掛と云う風体《ふうてい》。
男「まア御免なさい、私《わっち》アこんな形姿《なり》をしてえますが、その長安寺の門番でげす」
梅「おや/\、それじゃア貴方《あなた》にお聞きをしたら分りましょうが、あの粂之助はやっぱり和尚様のお側に居りますか」
男「えゝ、粂之助さんは、おいででござえます、あなたは何《なん》ぞ御用でもあるんでげすか」
梅「はい、あの、粂之助は私《わたくし》どもに長らく勤めて居ったものですが、少し理由《わけ》がありまして先達《せんだって》暇《いとま》を出しましたが、それきり何の沙汰もございませんで、余《あんま》り案じられますから出て参りましたのでございます」
男「ヘエー左様でございますか、じゃアまア私《わっし》と一緒においでなさい、どうせ彼方《あっち》へ帰るんですからお連れ申しましょう、其の代りお嬢様に少しお願《ねげ》えがあるんでげす、毎度私は和尚様から殺生をしてはならねえぞとやかましく云われるんでげすが、嗜《すき》な道は止《や》められず、毎晩|斯《こ》うやって、どんどん[#「どんどん」に欄外に校注、「三橋の側にあった不忍池の水の落口」]へ来ては鰻の穴釣《あなづり》をやってるんでげすが、どうぞお嬢さま私が此処《こゝ》で釣をした事は和尚様に黙ってゝおくんなさい」
梅「御不都合の事なら決して申しは致しませぬ」
男「おい老爺《じい》さん」
爺「へい」
男「あのね、此のお嬢様は己の方へ来るお方だから、己が御案内をして行《ゆ》くんだ、さ、喰った代《でえ》を此処《こゝ》へ置くぜ」
爺「あなた、これは一分銀で、お釣はござりませぬが」
男「なに釣は要らねえ、お前《めえ》にやっちまわア」
爺「それは何うも有難う存じます、左様なら夜《よ》が更けて居りますから、お気を附けあそばして」
男「なに大丈夫《でえじょうぶ》だ、己が附いてるから」
と怪しの男がお梅を連れて、不忍弁天《しのばずべんてん》の池の辺《ほとり》までかゝって参りました。
二
えゝ引続《ひきつゞき》のお梅粂之助のお話。何ういう理由《わけ》か女子《おんな》の名を先に云って男子《おとこ》の名を後《あと》で呼ぶ。お花半七とか、お染久松とか、夕霧伊左衞門とかいうような訳で、実に可笑《おか》しいものでござります。さて日本も嘉永《かえい》の五年あたりは、まだ世の中が開《ひら》けませぬから、神信心《かみしんじん》に凝《こ》るとか、易占《うらない》に見て貰うとかいうような人が多かったものでござります。丁度嘉永の六年に亜米利加船《あめりかぶね》が日本へ渡来をいたしてから、諸藩共に鎖国攘夷などという事を称え出し、そろ/\ごたつきはじめましたが、町家《ちょうか》では些《ちっ》とも気が附かずに居っ
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