私の仕業だ、そればかりでなく、娘を殺す前《めえ》に、段々様子を聞くと、宅《うち》に奉公をして居た粂之助と云う者は、暇《いとま》が出て当時では谷中仲門前の長安寺と云う寺に居るんだと聞いたから、もう一仕事しようと思って粂の処《とこ》へ出かけ、旨く騙《だまか》して金子《かね》を持って逃げておいでなさいと云ったのは、私の入智慧《いれぢえ》、本堂再建の普請金八十両を盗ませたのも皆この三次郎の作略でごぜえます」
玄「ふむー、此奴《こやつ》……えらい奴じゃな」
三「でね、まア然《そ》ういう理由《わけ》なんだから、鳶頭と番頭や何か残らず此所《こゝ》へ呼んでおくんなせえ」
玄「粂、早う呼んで来い」
粂「誰方《どなた》も早く来て下さいましよ」
と呶鳴ったから、何事かと思って鳶頭も番頭も皆揃って来ました、ずらりと大勢ならべて置いて、右の一伍一什《いちぶしじゅう》を三次郎が話した時には、鳶頭も番頭も驚いて暫《しばら》くは口も利けぬくらいでありました。
三「さ、何うぞ私《わっし》に縄を掛けて引く処へ引いてお呉んなせえ、決して粂之助の科《とが》じゃアねえ、私《わっち》が人殺《ひとごろし》をしたんですから……其の代りどうか兄《あに》さん粂を可愛がってやってお呉んなさい、又粂も宜《い》いか、もう四十を越してる兄さんだ、能《よ》く大事にして上げてくれ、よ、お前|幾歳《いくつ》になる、なに十九歳だ、うむ然《そ》うか、いや鳶頭、誠に何とも云いようがごぜえませぬ、お前《めえ》さんは粂を贔屓にしてお呉んなすって、やれこれ云って下すったのは、私《わっち》からも厚くお礼を申します、実ア今日|此処《こゝ》へ忍び込んで間《ま》が好《よ》かったら、此のどさくさ紛れに、もう一仕事する積《つもり》で来た処が、まア斯《こ》ういう訳になりましたから何卒《どうぞ》私へ縄を掛けて突出してお呉んなせえ……やい番頭、さ、己を縛れ」
番「なに此奴《こいつ》……汝《おのれ》が泥坊か、此のお庭へ何所《どこ》から這入った」
三「何所からだって這入《へい》るが、さ縛れ、其の代り己が喰《くら》い込めば、もう娑婆ア見る事ア出来ねえから、此の番頭|手前《てめえ》も一緒に抱いて行《ゆ》くから然《そ》う思え」
番「そりゃアえらい事《こっ》ちゃな」
是《こ》れから捨て置けませぬから、甲州屋の家内は家《うち》から縄付《なわつき》を出すのも厭だと心配をして果《はて》しがない。そこで三次郎が到頭自訴いたして、何うしても斬首《ざんしゅ》の刑に行わるべきであったのが、何ういう事か三宅へ遠島を仰付《おおせつ》けられましたが、大層|改悛《かいしゅん》の効が顕《あら》われ、後《のち》お赦《しゃ》になって、此の三次郎は兄玄道の徒弟となり、修行《しゅうぎょう》の功を積んで長安寺の後住《ごじゅう》を勤めました。此の者は穴釣三次《あなづりさんじ》と云って、其の頃下谷では名高い泥坊でござりました。又粂之助は遂に甲州屋へ貰われまして、甲州屋の跡目を相続いたし、其の後《のち》浅草仲町の富田屋という古着商《ふるぎや》から嫁を貰いましたが、此の嫁も誠に心懸けの良い婦人でござりまして、母に孝行を尽したという末お目出度いお話でござります。
底本:「圓朝全集 巻の一」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫
1963(昭和38)年6月10日発行
底本の親本:「圓朝全集巻の一」春陽堂
1925(大正15)年9月3日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。
また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。
底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」は、それぞれ「其の」と「此の」に統一しました。
また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。
入力:小林 繁雄
校正:かとうかおり
2000年5月10日公開
青空文庫作成ファイル:
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