びかけたのも風情ありげに見えた。猟銃の音など聞えた。斯んな気持なら書けるぞ! と云ふ気がされた。あの不幸な従兄が最後まで人をも世をも怨まず、与へられた一日々々の生を感謝するやうな気持で活きてゐた静かな謙遜な心境が同感出来るやうな思ひが、私の胸にも動きかけてるのを感じた。「これでいゝのだ。斯う云ふ気持で素直に書いて行けばいゝのだ」斯う思つて私はまた新らしく原稿紙に題を書きつけた。この小説で私は従兄の霊に懺悔したいことがあるのだが、世間的な羞恥心から私はいつも躊躇を感じてゐる。それで彼の霊魂から責められてる気がする。霊魂を欺くことは出来ない。霊魂を否定したところが、自分の良心の苦痛は去らない。私がこの小説を書き続けられないのは単に技巧などで困つて居るせゐではなく、さうした根本的な欠陥、自責の念から書き渋つて了ふのらしい。やつぱし素直な謙遜な気持にならなければいけないと思つた。さう思ふと気分が軽くなつて、筆を持つ勇気が出て来た。斯うして雑念を去つて机に向つてゐられると云ふことだけでもたいへんな幸福なことではないか、さう思つて二三枚書き続けて行つた。
 が午後内田がやつて来て、帳場で相談でもし
前へ 次へ
全38ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
葛西 善蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング