東京へ行つてゝお留守ですが、明日は帰る筈です」と云つた。
「さうですか。では失礼しました。……私はKと云ふ者ですが」
「Kさん……?」
「さうです。実は初めてあがつた者ですが、……失礼しました」
 私は斯う云つて、名刺も置かず逃げるやうにあわてゝ引返して、ホツと太息を吐いた。留守でよかつたと思つた。斯うした行動が耻ぢられた。が思ひ立つたことは兎に角一度はぶつかつて見なければ気の済まない、抑制を知らない自分の性質を知つてゐる私は、これも仕方がない、これで遺憾なく失敗して東京へ帰れるのだと思ふと、心が慰められる気がした。そして駈けるやうに暗いぬかるみの路を急いだが、やつぱし最初に見たペンキ塗りの家の方へ出て来た。ぐる/\と円を描くやうにして、狐につまゝれた人間のやうにそこら中を歩るいてゐた訳である。
 弟のところに着いたのは九時過ぎであつた。彼は遅く帰つて来て今ご飯を済ましたばかりだと云つて、疲れた顔をしてゐた。
「いや、とんだ目に会つて来た」と、私は無頓着な調子で云つたが、心から弟夫婦に申訳ない気がした。
 最初の電報は何枚かの附箋がついて夜遅く配達になつてゐた。弟はその翌日の昼頃電報為
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