替を出したので、無論遅くもその日の中には配達になるものと思つて、別に私の方へは電報も打たなかつたのであつた。それがその翌日の昼頃私の手に入つたのであつた。
「何しろ失敗だつた」と、私達はそれから酒を飲み出したが、私は斯う繰返すほかなかつた。
「こつちではまさかそんなことになつてることゝは思はないし、多分どこかへ飲みにでも行つて、その金まで内田さんに立替へて貰ふ訳に行かなくて電報でも打つたんだらう位ゐに思つてゐたので、大したことに考へてゐなかつたのですよ。それに、やつぱし内田さんにしてもまるつきり商売が違ふんだから、それだけの理解もつかない訳で、どん/\勘定が登つてはと心配し出したのも無理もないでせうよ」
「いや何しろ大失敗だつた。やつぱし鎌倉を出て来ない方がよかつたかな。それが、今度こそは屹度書けると思つたものだからな、実際金の問題ばかしでなく、あの原稿が気になつて仕様がないもんだからね、ほんとに癪に障るから明日にでも本屋に交渉して金が出来たら、またどこかへ出かけようとも思つてゐる」
「もう止した方がいゝでせうよ。金が出来たらばやつぱしお寺へ帰る方がいゝと思ふがなあ、Fちやんもどんなに心配してるか」
「ほんとにねえ、Fちやんが気の毒ですわ」と、気の弱い細君は眼をうるませて云つた。
「Fには会ひたい。もう小遣ひも無くなつてるだらう」と、私にもFのことばかしは気がゝりであつた。
六
二三日経つて、私は鎌倉八幡前の宿屋から使ひをやつて、Fを呼んだ。仕出し屋の娘も一緒に来たので三人で晩飯を喰べた。日が暮れるとFだけさきに帰つて行つた。「お前も一緒に帰つて呉れよ」と云つたが娘は聴かなかつた。
「Fさんあなたそれではさきに帰つてゝ下さいね。わたしどうしてもお父さんを伴れて帰りますからね。それでないとわたしうちへ帰つて叱られるんですもの」娘はFを送り出しながら斯う云つた。
「そんなこと云つたつて駄目だよ。金どころかこの通り外套も時計も取られて来た始末で、兎に角もう一度方面を変へて出かけて来る。そして今度こそは屹度一週間位ゐで書きあげて金を持つて帰つて来るから、うちへ帰つてさう云つて呉れ」
「困るわ、そんなことでは。うちではたいへん怒つてるんだから。Fさん一人置いといてもう二十日にもなるのに何のたよりも無いつて、今日もポン/\怒つてゐたところなんだから、どうしてもあなたに来ていたゞいて極りをつけて貰ひたいと云つてよこしたんですから、わたし一人では帰らりやしないわ」と娘は泣き出しさうな顔して云つた。
「だからさ、頼む。金が無いんだからね、寺へ帰つたつてまた毎日のやうに怒つて来られたんでは仕事は出来ないし、結局また飛び出さなければならないことになるだらう。さうなると益々困るばかしだ。お前のとこだつてそれだけ迷惑が大きくなる訳だからね。それにどうしてもこの原稿だけは今度片附けて了ひたい。これさへ片附けると、どんな方法でも講じて金を拵へて帰るからね、もう一度一週間か十日ばかしの間我慢して呉れつて、お前が帰つてさう云つて頼んで呉れよ。ね、いゝだらう?」私は斯う繰返したが、娘は承知しなかつた。
「そんならいゝわ、わたしどこまでもついて行くから。そしてお金の出来る間待つてゐるから」と、娘は私が相当に金の用意がしてあると思つたらしく、離れた小さな眼に剛情な色を見せて云ひ出した。
「そんならさうしなさい。しかし僕はこれから御殿場の方へ行くつもりなんだぜ。それでもいゝかね?」
「よござんすわ。うちでもさう云つてよこしたんですから、構はないわ」
その晩は泊つて明朝発つつもりだつたのだが、相手になつてるのがうるさくなつて、私はかなり酔つてもゐて大儀だつたが、宿の勘定を済まして外へ出た。斯うは云ひ張るものゝまさか娘は汽車までついて来るやうなこともあるまいと私はたかをくゝつて歩るきながら冗談など云ひかけたが、娘の様子が真気らしくもあるので、私は少し怖くなりかけた。東京行きの汽車が間もなくやつて来た。汽車の音を聞きながら、
「ほんとに行く気なんか?」と、私は念を押さずにゐられなかつた。
「ほんとですとも。あなたが帰つて下さらないんですもの……」と、娘は泣き出しさうな顔しながらも、思ひ詰めた眼付を見せて云つた。
「ぢやあ二枚買ふよ」
「いゝわ、汽車賃位ゐはわたしのとこにもありますから」
私はまたも狐につまゝれたやうな気持で、一枚を娘に渡して改札口を出て汽車に乗り、向ひ合つて腰掛に座つた。娘は紡績に汚れた銘仙の羽織を着た平常の身装であつた。「いや大船まで行つたら、下りると云ひ出すだらう。しかし下りないとなると困つたことだぞ」と、汽車が動き出すと私も不安になつた。ほんとにあのいつこく者の親父にどこまでもついて行けと云ひつけられて来たのかも知れないと思ふと、不
前へ
次へ
全10ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
葛西 善蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング