椎の若葉
葛西善藏
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)梅雨晴《つゆば》れ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六年間|居馴染《ゐなじ》んだ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)読売[#「読売」に白丸傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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六月半ば、梅雨晴《つゆば》れの午前の光りを浴びてゐる椎《しひ》の若葉の趣《おもむき》を、ありがたくしみ/″\と眺《なが》めやつた。鎌倉行き、売る、売り物――三題話し見たやうなこの頃の生活ぶりの間に、ふと、下宿の二階の窓から、他家のお屋敷の庭の椎の木なんだが実に美しく生々した感じの、光りを求め、光りを浴び、光りに戯れてゐるやうな若葉のおもむきは、自分の身の、殊《こと》にこのごろの弱りかけ間違ひだらけの生き方と較《くら》べて何と云ふ相違だらう。人間といふものは、人間生活といふものは、もつと美しくある道理なんだと自分は信じてゐるし、それには違ひないんだから、今更に、草木の美しさを羨《うらや》むなんて、余程自分の生活に、自分の心持ちに不自然な醜さがあるのだと、此《こ》の朝つく/″\と身に沁《し》みて考へられた。
おせいの親父《おやぢ》と義兄《にい》さんが見えて、おせいを引張つて帰つて行つたのは、たしか五月の三十日だと思ふ。その時も、大変なんでしたよ。僕にはもと/\掠奪《りやくだつ》の心はないんだ。人情としての不憫《ふびん》さはあるつもりなんだが、おせいを何《ど》うして見たところで僕の誇りとなる筈《はず》はない。それくらゐのことは、自分も最早《もう》四十近い年だ、いくらか世の中の塩をなめて来てゐるつもりだから、それ程間違つた考へは持つてをらないつもりである。
本能といふものの前には、ひとたまりもないのだと云はれれば、それまでのことなんだが、何うにかなりはしないものだらうか。本能が人間を間違はすものなら、また人間を救つてくれる筈だと思ふ。椎の若葉に光りあれ、我が心にも光りあらしめよ。
十二日に鎌倉へ行つて来ました。十三日は父の命日、来月の十三日は三周忌、鎌倉行きのことが新聞に出たのは十三日なのです。十二日の晩たしか九時いくらの汽車で鎌倉駅を発《た》つて来たらしいのですが、鎌倉署の部長さんだと思ふ、名刺には巡査飯田栄安氏とありますが、この方に発車まで見送られ、何うしたか往復の切符の復《かへ》りをなくし、またお金もなくし、飯田さんに汽車賃を借りて乗つて来たやうな訳なんだが、本郷の下宿へ帰つたのは多分十一時過ぎになつてゐたらうと思ふ。すると、電話が掛つて来た。下宿の女中さんなどは無論寝てゐたんだが、電話に出て、読売[#「読売」に白丸傍点]からだと取次いでくれた。滅多に読売新聞社なんかから電話があることはないんだが、何うしたのかと思つて電話に出て見ると、僕が鎌倉のおせいの家で散々乱暴を働き、仲裁に入つた男の睾丸《こうぐわん》を蹴上《けあ》げて気絶さしたとか、云々《うんぬん》の通信なんだがそれに間違ひはありませんか、一応お訊《たづ》ねする次第です――と云つたやうな話を聞き、ひどく狼狽《らうばい》した訳です。斯《か》うなつては弁解したところで仕方がないのだ。何分穏便のお取計らひを願ひたい、斯う云つて電話を切つたやうな訳でしたが、その翌朝の十三日は親父の命日の日だ。兎《と》に角《かく》余程親父には気に入らないと見えて、とかく親父の日にお灸《きう》を据《す》ゑられる。僕は何処《どこ》までも小説のつもりで話してゐるのだから、いろいろ本当の名前を挙《あ》げては悪いのだが、僕は自己小説家だから云ひますが、読売新聞社が其《そ》の晩に電話を掛けて呉《く》れて、翌朝の新聞に何行かの僕の釈明を載せて呉れたことは非常にありがたく思ふ。何年か前、やはり鎌倉で、僕の総領の失策から、新聞に書かれたことがあつて弱つたことがあるが、あの時の鎌倉の署長さんは、たしか吉田さんと云つたと思ふが、僕としては精一杯お詫《わ》びをした筈であり、子供は尋常六年生だつたが、もうあと半月そこ/\で卒業になる場合だから、鎌倉へ置いて悪いと云ふならば、あしたにも郷里へ帰す、何んな責任でも帯びるから、いろ/\な書類の手続きだけは勘弁して下さいと、男泣きに泣いて涙を流してお願ひした筈だつたのだが、何うもお役所といふものは、我々の考へてゐるやうなわけにはゆかないものらしく、何もわけの分らない十三歳の男の子に、拇印《ぼいん》を押させ――そんな子の拇印なぞが、それ程役所には大事なものか知ら。が、それは余談だが、それで雑誌「改造」に「不良児」といふ、それこそは事実の記録なんですが、それを書き、その上に神奈
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