川県の警務部長さんか、さう云つた方に対して新聞で公開状を書き、県の取締方針に就《つ》いてお伺ひしたいと考へたのだつたが、それで何うしても諒解《りやうかい》を得られないのなら自分等としての立場はない。現代の生活苦ばかしを救つてくれ、またその方針で保護されることは有難くもあり、我々が安んじて君国の人民であり……それと同時に人間の本能として避けがたい親子夫婦、いろいろな場合の人情苦に対しても、やはり親切な保護者でありたいと思ふのは、我々としての余りに虫の好すぎた註文だらうか。その後すぐ、吉田署長さんは、たしか県の刑事部長か何かに栄転なされたので、吉田さんに僕が公開状を書く機会を逸して了《しま》つて、未《いま》だに残念に思つてゐる。僕もその当時は逆上《のぼ》せましたから、吉田署長さんの返事次第では、自分も何とか自分の身を処決したいと思つたくらゐだが、人に恨みがある筈がない。皆、皆我が身の至らぬのに違ひないのだ。
 十二日朝七時いくらの汽車で鎌倉行きの往復切符を買つて乗り込んだ。前の晩実は、全然の責任を負つて呉れて僕とおせいの一族との中に這入《はひ》つてくれてる中村氏を駒込《こまごめ》に夜遅く訪ねたのだが、奥さんだけにお目にかゝり、それとなく事情の切迫してゐることを訴へ、その翌朝なんです。お金も八九円しか無かつたことであり、何うしようかと躊躇《ちうちよ》はしたんだが、だん/\と事惰が迫つては来る、一応――三四日しておせいはまた下宿に逃げて来たのだ――で彼女の言ひ分も確めたいと思ひ、震災以来一度も行つたこともないんだから、一通りの様子を見て来たいと思つて行つた訳なんだが、それが飛んでもないことになつた。小説といふものにするんだとこんな程度のものでは面白くも可笑《をか》しくもないんだが、自伝小説の一節としては僕はやはり記録して置きたい。
 名刺を何うかして無くしてしまつたのは残念だ。着なれない洋服なんか着て行つたので、何処《どこ》のポケットへ入れて無くしてしまつたのか、そんなことで復《かへ》りの切符もなくしたんだ。が、たしか新潟県の方の小学校の先生だつたと思ふ。あちらさんも洋服を着て、いくらか旧式な昔流の鞄《かばん》をお持ちになつてゐたが、学術視察にお出でになられたんださうで、それで鎌倉見物のことを車中で相談をかけられ、鎌倉駅を下りて、僕は僕の名刺の裏に、八幡宮、大塔宮、引返して駅前から電車で大仏、観音、それだけで三時間位はかゝるだらうと思ふから、江の島へ廻つては余程急いでも夕方になるでせうと思ひますから、さう云ふ順序になさつては如何《いかゞ》ですかと、簡単な地図を書き、将軍道の並木の前の所で別れ、それから、おせいの家で震災後駅前に始めた飲食店をそれとなく見たいと思ひ、路地を曲つたところ、悪いことは出来ないもので、建長寺にをつた時分、酒を続けてゐてくれた内田屋の御大《おんたい》に会ひ、では、おせいのお袋さんだけに会ひたいと思つたんだ。つまりおせいは、そのバラック飲食店で姉といつしよに、ゴロツキのやうな客相手に酌婦《しやくふ》めいたことをするのは厭《いや》だと云つて逃げて来たやうな訳なんだ。それにまた、実は、鎌倉行きは単純な鎌倉行きではなかつたんです。辻堂の中村さんをお訪ねして、本の方のことで御相談を得たいと思ひ、鎌倉駅で下りると同時に辻堂行きの切符を買つた訳なんである。久し振りで、本当に震災後初めて十ヶ月振りで鎌倉の駅を見、あの松、あの将軍道の桜並木を見て、実に愉快でもあり、やはり都会の空気とは違つた新しさ、海からの風、六年間|居馴染《ゐなじ》んだ空気、風情《ふぜい》の懐《なつか》しさに、酒を飲まなくつたつて酔つたやうな気分にならずにゐられなかつた。何ともしやうがないことぢやないか。僕は喧嘩《けんくわ》するつもりはないんだし、また喧嘩を吹かけられる程の弱味のない人間なんだから喧嘩がはじまる訳はないんだ。ところでね、やはりそのおせいのお袋さんや姉さんのおとめさんのやつてるバラック飲食店へ寄ることになつたんだ。仲々よく出来てるバラックだ。僕の思つてゐたより立派なバラック飲食店で、硝子《ガラス》の戸を開けてはひると、カフェーらしく椅子《いす》、テーブルの土間もあり、座敷には茶湯台《ちやぶだい》も備はつてをり、居間といふか茶の間といふか、そちらには長火鉢《ながひばち》も置いてあり、浅見と朱で書いた葛籠《つゞら》も備はつてゐるやうな訳で、いろ/\よく出来てゐると思つて感心したくらゐなんだから、乱暴なぞ働かうなんかの心持ちはないんだ。お袋さんと話してをるうちに、おせいの家の本家の若旦那《わかだんな》の喜平さんが見え、さうしてゐるうちに、向うを代表して中へ這入つてくれてゐる小池さん――「蠢《うごめ》くもの」――の中に出て来てゐる人事相談のお方なんだ。僕に
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