は大事な人だ。だから、お袋さんと話し、喜平さんと一二杯お酒も飲み合ひ、喜平さんの仙台二高時代の話なぞもきいた、それからなんだ。一通りの話がすんだもんだから、小池さんに一寸《ちよつと》外へ出て貰《もら》つて、駅前の葭簾張《よしずば》りの下のベンチで、よく/\懇談をした筈だ。そこですんだもんだから、僕は朝飯も食つてないんだ、前の洋食屋へはひつて御飯を食べたいから、サイダーでも飲んでおつき合ひくださらんかと云つたところ、矢張りおせいのお母さんの家の方がいゝでせうと云はれたんで、それもさうかと思ひ、ものの話しがすみ、道理のわけが分りさへすれば曇りかゝりのあるお互ひぢやないんだから、そこで僕もいくらか安心が出来たのです。
だが、まだ/\酔払つてゐる時刻ではないのです。それから駅の一寸|顔馴染《かほなじみ》の車屋さんの俥《くるま》に乗つて建長寺の方へ出掛けたんだ。久し振りで八幡さまの横を通り、あの小袋坂を登り、越え、下つた時の気持は僕としては悪い気持ではなかつた。勘当を受けた男がそれとなく内内で勘当を許され、久し振りで我家の門をはひるやうな気持でもあつたんだ。矢張りあの辺の景色はいゝ。いつも変らぬ杉並木の風情も立派だ。震災で崩《くづ》れなかつた山門を見たとき、これは崩れる山門ぢやない――そんなやうな気さへされて、建長興国の思ひにとざゝれました。
僕が足掛六年もゐた宝珠院、震災時分命から/″\で飛出した宝珠院も、本堂一つ残つたきり、何もかも無くなつてゐる。崖の崩れ、埋れた池――何といふ侘《わ》びしさかな。本堂の仏殿の前に立つて、礼拝《らいはい》をしたが、腹の底から瞼《まぶた》の熱くなる気がした。天源院に渡辺さんを訪ねたところ、お互ひにやれ/\と云つた気持で、自分は寺の妙高院に案内され、先住老僧のお写真を拝み、をばさんともお会ひして、何と云ふ嬉《うれ》しい日だつたでせう、さう云つて渡辺さんのバラック妙高で大変愉快に御馳走《ごちそう》になつてゐたところへ何う云つた拍子でおせいの親父がはひつて来たもんでせう。おせいの親父には借金も残つてをるし、おせいの姉のおとめさんからも金を借りて、それがみんな証書になつてをる訳なんだが、さりとて、僕としてはそれ程弱く出なければならない理由もないやうに思つてゐるんだ。いろ/\と両方に言ひ分もあり、事件といふものはこんがらかつて来ると、結ばれた糸をほぐすやうな根気と誠実さがなければ駄目なんだ。彼等の言ひ分は重々|尤《もつと》もであると思ふが、また我輩《わがはい》善蔵君としても、震災以来のナン[#「ナン」に傍点]についてはやはり遺憾《ゐかん》に思つてゐるんだ。つまりおせい君はその間に挾《はさ》まつて何う身動きも出来ないやうな状態なんぢやないかな。僕はおせいを悪い性質のをなごだとは考へてゐない。しかし何分にも周囲が悪いといふやうな気がされて仕方がない。こんなことを云ふと、向うの一族でも憤慨する人が沢山ありさうには思ふが、僕の感じだから仕方がないんだ。
おせいの親父さんとそこで何んなことを云ひ合つたのか、一寸僕にははつきりしたことは云へないのだが、渡辺さんが呼びに行つてくれたのかな、そんな筈がないと思ふんだが、それならばおせいのぢいさんが話を聞いて押掛けて来たのだらうと思ふ。僕には愉快な道理はない。その前に朝のうちにおせいの義兄の小池さんといふ人と会つて、一通りのことは話を決めてゐたわけなのですから。大体おせいの親父招寿軒浅見安太郎さんは、渡辺さんの先住老僧があの老年で、あの震災当時をばさんと一緒に潰《つぶ》され、幸《さいはひ》にお怪我《けが》もなくて出て、僕もさうだつたんだが、どこを頼ることもできず、僕の厄介《やくかい》になつてをる招寿軒だからと思つて、老僧をばさんのことをお願ひしたとき招寿軒主人、またおばあさん――おせいのお母さんなぞも、それだけの義理を尽してくれたとは何うにも考へられない。さういふいろ/\の心持で招寿軒のぢゝい、宝珠のばあさん、現住謙栄師――いろ/\な思ひで酒を飲んだのでは面白くない。渡辺さんに対して随分迷惑したと思つてそんなことまで考へると味気ない気がして来る。僕はお金も欲しくはなかつたのだが、そんないろ/\な気分から渡辺さんに汽車賃十円貸してくれと云つて申込んで、たしかに一時自分の財布に入れたと思ふが、そんな法がある可《べ》きぢやないんだから矢張りお返ししたやうに思ふ。それからだ。かなり酔払つて来たんだらうから、帰りにまたそのバラック飲食店に寄りたくなつたのか、寄るといふ馬鹿はないんだ。それ程信用してないものならば、信用しない人間のところへ寄るなんていふことは間違ひのもとであることで褒《ほ》めた話ではない。そこをのんべといふ奴は仕方がないもんでして、酔つたと見えるんですな。僕はどの程度の乱
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