血を吐く
葛西善藏
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)冗々《くど/\》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ガミ/\
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おせいが、山へ來たのは、十月二十一日だつた。中禪寺からの、夕方の馬車で着いたのだつた。その日も自分は朝から酒を飮んで、午前と午後の二囘の中禪寺からの郵便の配達を待つたが、當てにしてゐる電報爲替が來ないので、氣を腐らしては、醉ひつぶれて蒲團にもぐつてゐたのだつた。
「東京から女の人が見えました」斯う女中に喚び起されて、
「さう……?」と云つて、自分は澁い顏をして蒲團の上に起きあがつた。
おせいは今朝の四時に上野を發つて、日光から馬返しまで電車、そこから二里の山路を中禪寺までのぼり、そしてあのひどいガタ馬車に三里から搖られて來たわけだつた。自分は彼女の無鐵砲を叱責した。おせいはふだん着の木綿袷に擦り切れた銘仙の羽織――と云つて他によそ行き一着ありはしないのだが――そんな見すぼらしい身なりに姙娠五ヶ月の身體をつゝんでゐるのだつた。
「そんなからだして、途中萬一のことでもあつたら、たいへんぢやないか。誰がお前なんかに來いと云つた! 默つて留守してゐればいゝんぢやないか。それに女一人で、來るやうなとこぢやないぢやないか!」自分はいきなりガミ/\怒鳴りつけたので、彼女は泣き出した。
「これでも、いろ/\と心配して、ゆうべは寢ずに……そして……斯うしていろ/\と心配してやつて來たんですのに……」彼女は、斯う云つてしやくりあげた。
雜誌社に金を借りに※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つたこと、下宿でも、自分が二ヶ月も彼女ひとり打ちやらかして置いて歸らないので非常に不機嫌なこと、そんなことを冗々《くど/\》と並べ立てた。聽いて見ると尤もな話だつた。が折角の彼女の奔走甲斐もなく、彼女の持つて來た金では、またも、宿料に追付かなくなつてゐた。
「よし/\、わかつた。それではまた、なんとか一工夫しよう。折角來たついでだから、四五日湯治するもいゝだらう。それにしても君は、亂暴だねえ! そんなからだして……」
二三日前に初雪があつた。その雪どけのハネが、彼女の羽織の脊まであがつてゐた。
「兎に角ドテラに着替へて、ひとはひりして來よう。……何しろこの通り寒いんだからね。冬シヤツにドテラ二枚重ねてゐて、それで寒いんだからね。それに來月早々宿でも日光にさがつちまふんだからね。毎日その準備をしてゐるんで、こつちでも氣が氣でないもんだから、此間から毎日酒ばかし飮んでゐた」木管でひいてる硫黄泉のドン/\溢れ出てゐる廣い浴槽にふたりでつかりながら、自分は久しぶりで孤獨から救はれたホツとした氣持で、おせいに話しかけたりした。
宿では、千本から漬けるのだと云ふ來年の澤庵の仕度も出來、物置きから雲がこひの戸板など引出して、毎日山をくだる準備に忙がしかつた。今月中に二組の團體客の豫約を受けてゐるほかには、滯在客は自分一人きりで、一晩泊まりの客もほとんど來なかつた。紅葉は疾くに散つて、栂、樅、檜類などの濁つた緑の間に、灰色の幹や枝の樹膚を曝らしてゐた。湯の湖は、これからの永い冬を思ひ佗びるかのやうに、凝然と、冷めたく湛へてゐた。
夏前から文官試驗の勉強に來てゐて、受驗後も成績發表まで保養がてら暢氣に滯在してゐる二人の若い法學士――F君は二十五、N君は二十四――二人とも學校を出てすぐ大藏省に入つたのだが、試驗準備中は何ヶ月役所を休んでゐても月給が貰へるのだと云ふ、羨ましいやうな身の上の青年たちだつた。彼等は白根山、太郎山などと、毎日のやうに冐險的な山登りをやつてゐた。足にも身體にも自信のない自分は、精々湯の湖畔を一周して石楠花のステツキを搜したり、サビタの木のパイプを伐りに出かけるやうな時に彼等のお伴をしたが、すつかり懇意になつてゐた。がN君は成績發表前、月初めに歸京して、廣い宿にF君と自分の二人だけになつた。それからぢき成績が發表されたが、二人とも見事にパスしてゐた。
十日頃に自分の仕事も一片附いたので、それからは、天氣さへいゝと、F君につれられて、蓼沼、金精峠などと、自分も靴に卷ゲートル着けて、そこら中を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、はつきりしない金の當てを待つてゐるもどかしさ、所在なさの日を紛らして送つてゐた。晩には大抵、自分の部屋か、彼の部屋かで酒を飮みながら話し合つた。畠違ひの斯うした青年と近づきを持たない自分に、F君は未來のある新時代の青年官吏――官吏と云
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