ふ言葉はヘンだが――として、甚だ好ましい印象を與へた。健全で、頭腦が明快で、趣味あり禮讓ある一個の立派な青年紳士だつた。文學などの鑑賞力に就いても、かなりに磨かれてゐることを思はせた。
「いつしよに歸りませう。私の方はどうせ二日や三日は延びても構はないのですから」F君は斯う云つて呉れた。
 自分も、十五六日頃には引拂へるつもりだつた。それで、一日々々とF君に延ばして貰つてゐるのだが、F君の口答試驗の日割が新聞に發表され、その都度で彼はどうしても十六日には山をくだらねばならぬことになつた。その前日、自分等は最後の散歩を、戰場ヶ原の奧、幸徳沼の牧場に――いつしよにした。晝飯後、往復三里の道だつた。F君に聞いてゐた以上に、いゝ景色だつた。「この沼は一等綺麗だ」とF君が云つた。小笹の上に寢そべつてゐる牛の群れ、F君に寫眞機を向けられてのそり/\白樺の林の中を遠退いて行く逞しい黒斑の牡牛、男體山太郎山の偉容、沼に影を浸す紅葉――こゝの景色が一等明るく、そしてハイカラだと云ふF君の言葉が、自分にも首肯《うなづか》れた。「牧場の家」で、焚火の爐邊で搾り立ての牛乳を飮み、充分に滿足して、自分等は日暮れ方宿に歸つた。そしていつしよに湯にはひり、別れの晩餐を共にした。が彼はその翌日も、一日延ばして呉れたのだつた。彼は、一人取殘される自分に、同情して呉れたのだつた。自分が宿の女中たちにも飽きられ、厄介者視せられて、みじめな、たよりない氣持で日を送つてゐるのを、青年の純な心から、同情してゐて呉れたのだつた。何と云ふ親切!……牧場行きの場合でも、彼は終始先きに立つて熊笹に蔽はれた細徑の樹の根、刺のある枯薊――さう云つたものにまでも注意して呉れ、また彼には自由に飛び越えられる小川だつたが特に自分のためにそこらの大きな石を搜して來て川の中に路を造つて呉れたりした。酒を飮んでゐる場合以外の、自分のさびしげな、物悲しげな姿が、すくすくと眞直ぐに伸びた若い彼の心を、何かしらそゝるところがあつたのかも知れない。……
 いよ/\の十七日は、朝から霧のやうな雨が降つてゐた。馬返しまで五里餘の道を、彼は歩いてくだるのだつた。すつかり支度の出來たところで、彼は自分の部屋で、別れの杯を擧げることになつた。
「かつきり一時間だけ……」彼の腕時計を見ながら斯う云つて酒をすゝめはじめたが、もう三十分、もう十分と云ふことで、たうとう十二時近くなつてしまつた。
「私のはキザなんですけど……」斯う云つて、彼は肩書附きの名刺を自分に渡した。その裏に――音もなく秋雨けぶる湯の宿に、くみかはしけり別れの酒を――彼は斯う書いて呉れた。
 辭退するのを、自分もまたゲートルを卷きレーンコートを着て、途中まで送つて行くことにした。
「僕に構はないで、あなたはドン/\先きを急いで下さい。あなたの姿の見える間、僕はついて行くんですから。あなたの姿が見えなくなつたところで、僕は引返すことにしますから、あなたは僕に構はないでドン/\急いで下さい。時間を遲らしてしまつたのですから……」湖畔の道を足弱の自分と並んで行く彼を、自分は斯う云つて促し立てた。
 一町遲れ二町遲れして――が道がグルリと曲がると、三四町先きをステツキを振りながら大股に歩いて行く彼の後姿を見出して、自分はその度に「オーイ! オーイ!」と怒鳴つた。が彼の歩調はだん/\と早まつた。自分は一里十町――戰場ヶ原の中程の三軒家の茶店までは追付いて行つて、そこで茶を飮んで別れたいと思つたのだが、二十町も來ないうちに自分は息が切れてしまひ、路傍に打倒れさうになり、彼の姿を失つてしまつた。で自分は最後の「オーイ!」を長く叫んで、悄然として雨の中を引返したのだつた。
 それからの五日間、自分は朝から飯も食はずに酒を飮み、睡むり、そしてまだ醉のさめ切らないうちに湯に飛び込んで來ては、また飮み出す――そんなことを繰返してゐたのだつた。

 が、たうとう、おせいが來た翌々日、自分はまた朝から酒を飮んで、夕方、飮食物共だつたが、洗面器にほとんど三杯――殊に最後の一杯は、腐つた魚の腸のやうなものを、何の疼痛も感ぜずにドク/\と吐いてしまつた。その晩はほとんど昏睡状態だつた。夕方からの霰が、翌日は大吹雪になつてゐた。膏藥か松脂のやうな血便が、三四日續いた。それが止んだ自分にポカリとまゐるのではないかと云ふ氣もされたが、しかし無意識のうちに搜してゐたのかも知れない死場所としては、この山の湖畔はわるくないと思つた。田舍の妻子、おせいの腹の子のことで、おせいに遺言した。
「酒のせゐですから、よくあることですから、あなたが今度が初めてでしたら、決して心配なことはありませんから、力を落さないで……」
 宿の主人は斯う繰返して力を附けて呉れたが、しかし結局中禪寺からおせいの分と二臺
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