君は、力無く見ひらいた眼の美しい、透き通るやうな青白い顔をして、彼がこの家へ来てから幾《ほと》んど起きてゐた日がないやうであつた。細君孝行な若い勤め人の夫は、朝早く出て晩遅く帰るのであつたが、朝晩に何かといたはつてゐるのが手に取るやうに聞こえるのであつた。細君の軽い咳音《せきおと》もまじつて、コソ/\と一晩中語りあかしてゐるやうなこともあつた。
 彼は此頃の自分の健康と思ひ合はして、払ひ退《の》けやうのない不吉な、不安なかんがへになやまされてゐる。病人の絶えない家のやうにも思はれるのであつた。裏は低い崖《がけ》になつて、その上が墓地の藪《やぶ》になつてゐるが、この家の地所もやはり寺の所有なのであつた。ワクの朽《くさ》つた赤土の崖下の蓋《ふた》のない掘井戸から、ガタ/\とポンプで汲《く》み揚げられるやうになつてゐて、その上が寺の湯殿になつてゐた。若い女の笑ひ声なども漏れてゐることがあつた。そして崖上の暗い藪におつかぶされてゐるこの家では、もう、いやに目まぐるしい手足を動かして襲つて来る斑《まだ》らの黒い大きな藪蚊が、朝夕にふえて行くのであつた。
 彼は飲みつけない強い酒を呷《あふ》つて、
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