ひとりの哀しき父なのであつた。哀しき父――彼は斯《か》う自分を呼んでゐる。
彼にはこれから入梅へかけての間が、一年中での一番|堪《た》へ難い季節になつてゐた。彼は此頃《このごろ》の気候の圧迫を軽くしよう為めに、例年のやうに、午後からそこらを出歩くことにしようと思つた。けれども、それを続ける事はつらいことでもある。カーキ色の兵隊を載せた板橋火薬庫の汚ない自動車がガタ/\と乱暴な音を立てて続いて来るのに会ふこともあつた。吊台《つりだい》の中の病人の延びた頭髪《かみのけ》が眼に入ることもあつた。欅《けやき》の若葉をそよがす軟《やはらか》い風、輝く空気の波、ほしいまゝな小鳥の啼声……しかし彼は、それらのものに慄《ふる》へあがり、めまひを感じ、身うちをうづかせられる苦しさよりも、尚《なほ》堪へ難く思はれることは町で金魚を見ねばならぬことであつた。
金魚と子供とは、いつか彼には離して考へることの出来ないものになつてゐた。
二
彼はまだ若いのであつた。けれども彼の子供は四つになつてゐるのである。そして遠い彼の郷里に、彼の年よつたひとりの母に護《まも》られて成長して居るのであ
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