ろこ》んで「これもお父さんから、これもお父さんから」と云つて近所の人達に並べて見せたと云ふことや、彼の手紙をお父さんからの手紙と云つて持ち歩くと云ふことなどを思ひ合して、別れてわづか一年足らずに過ぎない子供の現在を想像することの困難を感ずるのであつた。
霧のやうな小雨が都会をかなしく降りこめて居る。彼は夜遅くなつて、疲れて、草の衾《しとね》にも安息をおもふ旅人のやる瀬ない気持になつて、電車を下りて暗い場末の下宿へ帰るのであつた。
彼は海岸行きの金をつくる為に、図書館通ひを始めてゐる。……
彼の胸にも霧のやうな冷たい悲哀が満ち溢《あふ》れてゐる。執着と云ふことの際限もないと云ふこと、世の中にはいかに気に入らぬことの多いかと云ふこと、暗い宿命の影のやうに何処《どこ》まで避けてもつき纏《まと》うて来る生活と云ふこと、また大きな黴菌《ばいきん》のやうに彼の心に喰ひ入らうとし、もう喰ひ入つてゐる子供と云ふこと、さう云ふことどもが、流れる霧のやうに、冷たい悲哀を彼の疲れた胸に吹きこむのであつた。彼は幾度《いくたび》か子供の許《もと》に帰らうと、心が動いた。彼は最も高い貴族の心を待つて、最も
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