哀しき父
葛西善藏

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)靄《もや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|堪《た》へ難い

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](大正元年八月)

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)だん/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

       一

 彼はまたいつとなくだん/\と場末へ追ひ込まれてゐた。
 四月の末であつた。空にはもや/\と靄《もや》のやうな雲がつまつて、日光がチカ/\桜の青葉に降りそゝいで、雀《すゞめ》の子がヂユク/\啼《な》きくさつてゐた。どこかで朝から晩まで地形《ぢぎやう》ならしのヤートコセが始まつてゐた……。
 彼は疲れて、青い顔をして、眼色は病んだ獣《けもの》のやうに鈍く光つてゐる。不眠の夜が続く。ぢつとしてゐても動悸《どうき》がひどく感じられて鎮《しづ》めようとすると、尚《な》ほ襲はれたやうに激しくなつて行くのであつた。
 今度の下宿は、小官吏の後家さんでもあらうと思はれる四十五六の上《かみ》さんが、ゐなか者の女中相手につましくやつてゐるのであつた。樹木の多い場末の、軒の低い平家建の薄暗くじめ/\した小さな家であつた。彼の所有物と云つては、夜具と、机と、何にもはひつてない桐《きり》の小箪笥《こだんす》だけである。桐の小箪笥だけが、彼の永い貧乏な生活の間に売残された、たつたひとつの哀《かな》しい思ひ出の物なのであつた。
 彼は剥《は》げた一閑張《いつかんばり》の小机を、竹垣ごしに狭い通りに向いた窓際《まどぎは》に据《す》ゑた。その低い、朽《くさ》つて白く黴《かび》の生えた窓庇《まどびさし》とすれ/\に、育ちのわるい梧桐《あをぎり》がひよろ/\と植つてゐる。そして黒い毛虫がひとつ、毎日その幹をはひ下りたり、まだ延び切らない葉裏を歩いたりしてゐるのであつたが、孤独な引込み勝な彼はいつかその毛虫に注意させられるやうになつてゐた。そして常にこまかい物事に対しても、ある宿命的な暗示をおもふことに慣らされて居る彼には、その毛虫の動静で自然と天候の変化が予想されるやうにも思はれて行くのであつた。
 孤独な彼の生活はどこへ行つても変りなく、淋《さび》しく、なやましくあつた。そしてまた彼は
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