ひとりの哀しき父なのであつた。哀しき父――彼は斯《か》う自分を呼んでゐる。
彼にはこれから入梅へかけての間が、一年中での一番|堪《た》へ難い季節になつてゐた。彼は此頃《このごろ》の気候の圧迫を軽くしよう為めに、例年のやうに、午後からそこらを出歩くことにしようと思つた。けれども、それを続ける事はつらいことでもある。カーキ色の兵隊を載せた板橋火薬庫の汚ない自動車がガタ/\と乱暴な音を立てて続いて来るのに会ふこともあつた。吊台《つりだい》の中の病人の延びた頭髪《かみのけ》が眼に入ることもあつた。欅《けやき》の若葉をそよがす軟《やはらか》い風、輝く空気の波、ほしいまゝな小鳥の啼声……しかし彼は、それらのものに慄《ふる》へあがり、めまひを感じ、身うちをうづかせられる苦しさよりも、尚《なほ》堪へ難く思はれることは町で金魚を見ねばならぬことであつた。
金魚と子供とは、いつか彼には離して考へることの出来ないものになつてゐた。
二
彼はまだ若いのであつた。けれども彼の子供は四つになつてゐるのである。そして遠い彼の郷里に、彼の年よつたひとりの母に護《まも》られて成長して居るのであつた。
彼等は――彼と、子と、子の母との三人で――昨年の夏前までは郊外に小さな家を持つていつしよに棲《す》んでゐたのである。世の中からまつたく隠遁《いんとん》したやうな、貧しい、しかし静かな生活であつた。子供は丁度ラシャの靴をはいてチヨコ/\と駈《か》け歩くやうになつてゐたが、孤独な詩人のためには唯一の友であり兄弟であつた。
彼等は縁日で買つて来た粗末な胡弓《こきゆう》をひいたり、鉛筆で絵を描いたり、鬼ごつこなぞして遊んだ。棄《す》てられた小犬と、数匹の金魚と亀の子も飼つてゐた。そして彼等の楽しい日課のひとつとして、晴れた日の午後には子供の手をひいて、小犬をつれて、そこらの田圃《たんぼ》の溝《みぞ》に餌《ゑ》をとりに行くことになつてゐた。けれども丁度彼等のさうした生活も、迫りに迫つて来てゐたのであつた。従順な細君の溜息《ためいき》がだん/\と力無く、深くなつて行つた。ながく掃除を怠つてゐた庭には草が延び放題に延びてゐた。
金魚は亀の子といつしよに、白い洗面器に入れられて縁側に出されてあつた。彼等の運命は一日々々と追つて来てゐるのであつたが、子供の為めの日課はやはり続けられてゐた。
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