日を送つてゐる彼には、最初この家の陰気で静かなのが却《かへ》つて気安く感じられたのであつたが、それもだん/\と暗い、なやましい圧迫に変つてゐるのであつた。
予備士官は三十二三の、北国から出て来たばかりの人であつた。終日まつたく日のさゝない暗い室にとぢこもつてゐて、何をしてるのとも想像がつかなかつた。大きな不格好《ぶかつかう》な髪の薄い頭をして、訛音《なまり》のひどい言葉でブツ/\と女中に何か云つてることもあつた。時々汚ない服装《なり》の、ひとのおかみさんとも見える若い女が訪ねて来ることがあつたが、それが近所の安淫売《やすいんばい》だつたと云ふことが、後になつて無口の女中から漏《も》らされてゐた。
それがつい……まだ幾日も経《た》つてゐないのであつた。ある朝女中が声をひそめて「腸がねぢれたんださうですよ……」と軍人の三四日床に就《つ》き切りであることを話してゐた。それから一両日も経つた夕方、吊台《つりだい》が玄関前につけられて、そして病院にかつぎこまれて、手術をして、丁度八日目に死んだのである。腸の閉鎖と、悪性の梅毒に脊髄《せきずゐ》をもをかされてゐたのであつた。
また隣室の若い細君は、力無く見ひらいた眼の美しい、透き通るやうな青白い顔をして、彼がこの家へ来てから幾《ほと》んど起きてゐた日がないやうであつた。細君孝行な若い勤め人の夫は、朝早く出て晩遅く帰るのであつたが、朝晩に何かといたはつてゐるのが手に取るやうに聞こえるのであつた。細君の軽い咳音《せきおと》もまじつて、コソ/\と一晩中語りあかしてゐるやうなこともあつた。
彼は此頃の自分の健康と思ひ合はして、払ひ退《の》けやうのない不吉な、不安なかんがへになやまされてゐる。病人の絶えない家のやうにも思はれるのであつた。裏は低い崖《がけ》になつて、その上が墓地の藪《やぶ》になつてゐるが、この家の地所もやはり寺の所有なのであつた。ワクの朽《くさ》つた赤土の崖下の蓋《ふた》のない掘井戸から、ガタ/\とポンプで汲《く》み揚げられるやうになつてゐて、その上が寺の湯殿になつてゐた。若い女の笑ひ声なども漏れてゐることがあつた。そして崖上の暗い藪におつかぶされてゐるこの家では、もう、いやに目まぐるしい手足を動かして襲つて来る斑《まだ》らの黒い大きな藪蚊が、朝夕にふえて行くのであつた。
彼は飲みつけない強い酒を呷《あふ》つて、
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