と呼びぬ。
さなきだに病《やみ》疲れし上に、嬰児《みどりご》を産み落せし事なれば、今まで張りつめし気の、一時に弛《ゆる》み出でて、重き枕いよいよ上らず、明日《あす》をも知れぬ命となりしが。臨終《いまわ》の際《きわ》に、兼てより懇意《こころやすく》せし、裏の牧場《まきば》に飼はれたる、牡丹《ぼたん》といふ牝牛《めうし》をば、わが枕|辺《べ》に乞《こ》ひよせ。苦しき息を喘《ほっ》ト吻《つ》き、「さて牡丹ぬし。見そなはす如き妾《わらわ》が容体《ありさま》、とても在命《ながらえ》る身にしあらねば、臨終の際にただ一|事《こと》、阿姐《あねご》に頼み置きたき件《こと》あり。妾が雄《おっと》月丸ぬしは、いぬる日猛虎|金眸《きんぼう》がために、非業の最期を遂げしとは、阿姐も知り給ふ処なるが。彼《かの》時妾|目前《まのあた》り、雄が横死《おうし》を見ながらに、これを救《たす》けんともせざりしは、見下げ果てたる不貞の犬よと、思ひし獣もありつらんが。元より犬の雌《つま》たる身の、たとひその身は亡《ほろ》ぶとも、雄が危急を救ふべきは、いふまでもなき事にして、義を知る獣の本分なれば、妾とて心付かぬにはあらねど
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