ら。このほど大王|何処《いずく》よりか、照射《ともし》といへる女鹿《めじか》を連れ給ひ、そが容色に溺《おぼ》れたまへば、われ曹《ら》が寵《ちょう》は日々に剥《そ》がれて、私《ひそ》かに恨めしく思ひしなり。かくて僕|去《いぬ》る日、黄金ぬしに追れしより、かの月丸《つきまる》が遺児《わすれがたみ》、僕及び大王を、仇敵《かたき》と狙ふ由なりと、金眸に告げしかば。他《か》れもまた少しく恐れて、件《くだん》の鯀化、黒面などを呼びよせ、洞ちかく守護さしつつ、自身《おのれ》も佻々《かるがる》しく他出《そとで》したまはざりしが。これさへ昨日黒衣めが、和殿を打ちしと聞き給ひ、喜ぶこと斜《ななめ》ならず、忽《たちま》ち守護《まもり》を解かしめつ。今宵は黄金丸を亡き者にせし祝《いわい》なりとて、盛《さかん》に酒宴を張らせたまひ。僕もその席に侍りて、先のほどまで酒|酌《く》みしが、独り早く退《まか》り出《いで》つ、その帰途《かえるさ》にかかる状態《ありさま》、思へば死神の誘ひしならん」ト。いふに黄金丸は立上りて、彼方《あなた》の山を佶《きっ》と睨《にら》めつ、「さては今宵彼の洞にて、金眸はじめ配下の獣|們《ら》、酒宴《さかもり》なして戯《たわぶ》れゐるとや。時節到来今宵こそ。宿願成就する時なれ。阿那《あな》喜ばしやうれしや」ト、天に喜び地に喜び、さながら物に狂へる如し。聴水はなほ語を続《つ》ぎて、「実《げ》に今宵こそ屈竟《くっきょう》なれ。さきに僕|退出《まかりで》し時は、大王は照射《ともし》が膝を枕として、前後も知らず酔臥《えいふ》したまひ。その傍《ほとり》には黒衣めが、興に乗じて躍りゐしのみ、余の獣們は腹を満たして、各自《おのおの》棲居《すみか》に帰りしかば、洞には絶えて守護《まもり》なし。これより彼処《かしこ》へ向ひたまはば、かの間道より登《のぼり》たまへ。少しは路の嶮岨《けわし》けれど、幸ひ今宵は月冴えたれば、辿《たど》るに迷ふことはあらじ。その間道は……あれ臠《みそな》はせ、彼処《かしこ》に見ゆる一叢《ひとむら》の、杉の森の小陰《こかげ》より、小川を渡りて東へ行くなり。さてまた洞は岩畳み、鬼蔦《おにづた》あまた匐《は》ひつきたれど、辺《ほと》りに榎《えのき》の大樹あれば、そを目印《めじるし》に討入りたまへ」ト、残る隈なく教ふるにぞ。鷲郎聞きて感嘆なし、「げにや悪に強きものは、また
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