、彼《かの》時命を惜みしは、妾が常ならぬ身なればなり。もし妾も彼処《かしこ》に出でて、虎と争ひたらんには。雄と共に殺されてん。さる時は誰《たれ》か仇をば討つべきぞ。結句《つまり》は親子三匹して、命を捨《すつ》るに異ならねば、これ貞に似て貞にあらず、真《まこと》の犬死とはこの事なり。かくと心に思ひしかば、忍びがたき処を忍び、堪《こら》えがたきを漸《ようや》く堪えて、見在《みすみす》雄を殺せしが。これも偏《ひと》へに胎《はら》の児《こ》を、産み落したるその上にて。仇を討たせんと思へばなり。さるに妾不幸にして、いひ甲斐《がい》なくも病に打ち臥《ふ》し、已《すで》に絶えなん玉の緒を、辛《から》く繋《つな》ぎて漸くに、今この児は産み落せしか。これを養育《はぐく》むこと叶《かな》はず、折角頼みし仇討ちも、仇になりなん口惜しさ、推量なして給はらば、何卒《なにとぞ》この児を阿姐《あねご》の児となし、阿姐が乳《ち》もて育てあげ。他《かれ》もし一匹|前《まえ》の雄犬となりなば、その時こそは妾が今の、この言葉をば伝へ給ひて、妾がためには雄の仇、他《かれ》がためには父の仇なる、彼の金眸めを打ち取るやう、力に成《なっ》て給はれかし。頼みといふはこの件《こと》のみ。頼む/\」トいふ声も、次第に細る冬の虫草葉の露のいと脆《もろ》き、命は犬も同じことなり。

     第三回

 悼《いた》はしや花瀬は、夫の行衛《ゆくえ》追ひ駆けて、後《あと》より急ぐ死出《しで》の山、その日の夕暮に没《みまか》りしかば。主人《あるじ》はいとど不憫《ふびん》さに、その死骸《なきがら》を棺《ひつぎ》に納め、家の裏なる小山の蔭に、これを埋《うず》めて石を置き、月丸の名も共に彫《え》り付けて、形《かた》ばかりの比翼塚、跡《あと》懇切《ねんごろ》にぞ弔《とぶら》ひける。
 かくて孤児《みなしご》の黄金丸《こがねまる》は、西東だにまだ知らぬ、藁《わら》の上より牧場なる、牡丹《ぼたん》が許《もと》に養ひ取られ、それより牛の乳を呑《の》み、牛の小屋にて生立《おいた》ちしが。次第に成長するにつけ、骨格《ほねぐみ》尋常《よのつね》の犬に勝《すぐ》れ、性質《こころばせ》も雄々《おお》しくて、天晴《あっぱ》れ頼もしき犬となりけり。
 さてまた牡丹が雄《おっと》文角《ぶんかく》といへるは、性来《うまれえて》義気深き牛なりければ、花瀬が遺言
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